analog

4月 16, 2009

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記)

カテゴリー: education, philosophy, society — hidetox @ 7:40 pm

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』という記事では、わざわざ次のように書いたが、それでも残念ながら気を悪くした人がいるようだ。

俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。

まあ、Tumblrで引用された一部分だけを見て反応した人も多いのだろう。そういうものだ。それを批判するつもりもない。ちゃんと原典を読んでくれない人も多いのだろう。

それで感情的な批判をしている人もいて、中身のない罵倒を聞く耳など持たないが、筋の通った反論は傾聴するので、ぜひ筋の通った反論を聴きたいと思う。

それとは別に、主張を誤解している人もいるようだし、ここで補足しておく。

提起した問題は簡単なことだ。「これを喧伝する人は、自分が彼の立場になったとしても堪えられるのか?」という問いだ。

1)この答えがYESなら、恥じることなく喧伝すればいいだろう。(だから、この1に該当する人が腹を立てているとしたら、その理由が分からない。あなたを批判していないのだ。原典を読まずに誤解したケースだろうか)

2)この答えがNOなのに喧伝する人は、筋が通っていない。個人的には「自分に都合のいいように正義を曲げる人」と思える。とはいえ、それも言論の自由であり、尊重するのだが。「お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない」のだから。(わざわざこう書いたのだから、批判や反論はあっていいと思うが、感情的な罵倒をする人は何を考えているのだろうか、その心理状態が、じつに興味深い)

3)答えがNOだが、その引き受けるべき正義について無自覚な人もいるだろう。それを指摘したのが、例の記事では中心的なメッセージだった。これは「説得」だった。(「ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ」)

なお、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」を規制せよ、などとはまったく言っていない。言論の自由だ。私は、むしろ普通の人よりもプライバシーを尊重していないといえるだろう(リバタリアンだし)。だから、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」への批判はプライバシー権の観点ではない。

もちろんグーグル社に対して「ストリートビューでうちの庭の中が見えるのは困る」と抗議するのは自由だし、権利侵害がある場合には修正も必要だろう。しかしグーグルに修正を強制する権利はだれにもない。憲法に定める表現の自由は民主主義が成り立つための絶対条件であり、安易に例外を作ってはいけないのだ。他人の言論を制限しようとする「権利のインフレ」は表現を窒息させ、ウェブを不自由にするだけだ。

via: 「権利のインフレ」が表現を窒息させる

では、プライバシーとは関係ない議論としたら、どういう議論だったかというと、むしろ社会主義者が好むような道徳論、正義論に近い。「もし自分があの人の立場だったら」「立場の交換に堪えられるかどうか」という論法のだ。あくまで法規制などではなく、そういう個々人のモラルの範囲の議論をした。目的は批判ではなく説得だからだ。そういうことをする人を減らしたいと思ったのだ。キリストは「して欲しいことを他人にもしろ」と言ったし、孔子は「して欲しくないことは他人にもするな」と言った。そういうことだ。

以上、『赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』への補足とする。

4月 15, 2009

書評:自由のためのメカニズム

カテゴリー: book, critique, economics, law, liberty, society — hidetox @ 10:06 pm

以前紹介したデイヴィッド・フリードマン著『自由のためのメカニズム』は非常に読みにくい本だ。

難解というのではなく、文章として読みづらい。

原因が翻訳にあるのか、原文にあるのか、定かではないが・・・

リバタリアニズムのなかでも過激なアナルコ・キャピタリスト(無政府資本主義論者)の主張を知りたいという向きには第1部〜第2部だけ読むことをお勧めする。第3部以降は、日本語としておかしな文が多すぎて、読むに耐えない。

ただ、興味があれば第3部や第4部にも読むに値する箇所はある。どちらかというと第2版で追加された第4部のほうが興味深いので、おすすめする。おもに「法と経済学」に関する論考だけは読んでおく価値があると思う。

4月 4, 2009

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ

カテゴリー: education, philosophy, society — hidetox @ 1:14 am

タンブラーを見ていたら、回ってきた記事がある。あえてリンクしない。この記事には写真も載っていた。

下半身丸出しで、シルバーシートに横たわってる、泥酔しているサラリーマンがいました。 靴や靴下、ジーパンなどを脱ぎ散らかし、股間をいじくっていました。 車内は一丸となって彼を取り囲い、写メールの嵐でした。

掲載されていた写真は、おそらく、これを書いた本人の撮影だろう。顔にボカシを入れていたが、そういう問題ではない。

その人の世間体を、人生を、破壊するに足る行為をしている自覚が無い(訂正:ことを)としたら、空恐ろしく感じる。

「絶対流出しないから」といって撮影したプライベート写真の流出で人生を破壊された人が俺の知るかぎり5人はこの世に存在する。実態はその何十倍か、何百倍か。。。

こういう写真撮る人間は、「自分がその立場だったら」と想像することができないんだろうか。

自分を安全圏において人を笑いものにする人は、自分がそういう立場になったときは誰からも守ってもらえないかもしれない、と割り切っているのだろうか。

人によって取る行動は違うかもしれない。車掌を呼ぶとか、露出部を隠してやるとか、起こしてやるとか、、、なんにしても、写真を撮るのは最低の行為だ。

俺のほうがおかしいのだろうか?

因果応報を自覚している人、自分がその立場になったときの覚悟ができて笑っている人なら、筋は通っている。それを否定はしない。ただ、俺が嫌悪感を頂くというだけに過ぎない。お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない。

ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ。

俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。

追記:
赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記)

3月 30, 2009

人類の理性は帰結主義を受け入れるか

カテゴリー: economics, education, history, law, liberty, philosophy, politics, science, society — hidetox @ 10:35 pm

地獄への道は善意で敷き詰められているという記事では、「善意」が社会にもたらす悪影響を紹介しました。

そのような問題を解決するために必要なのは、人類の理性です。人類は、帰結主義的な思考によって政治的意志決定をしていかなければなりませんが、それを阻むのが感情・本能です。つまり、理性によって、それらを押さえ込まなければ、人類は感情・本能に従って道を誤ります。

帰結主義(きけつしゅぎ、英語 consequentialism)とは、行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結(結果)を考慮に入れる立場を指す。功利主義は、帰結主義のひとつの立場である。

via: 帰結主義 – Wikipedia

帰結主義的に正しくても、感情的には受け入れがたいというのが「労働者保護の撤廃」だったりします。それにより失業率が低下し、国民の経済厚生が向上するはずなのに。

拒否パターン1:道徳・価値観・倫理的に、受け入れがたい。
拒否パターン2:違和感・恐怖から、受け入れがたい。

前者には、まだ尊重すべき論理があります。しかし、後者の理由による拒否もあるということに気付きました。これは、本当にくだらないことですが。

自転車に乗れない人に似ています。「スピードを出せば安定するんだよ」と言われても、スピードを出すのは怖いから、なかなか乗れるようにならない。本能はその言説・理論を「信じる」ことに抗うからです。それに打ち克つのは理性です。

「ある程度はスピードを出したほうが安全」というのは帰結主義的に正しい言説であるけれど、感情的(本能的)には受け入れがたいわけです。マトリックスのモーフィアスなら「速く動こうと思うな。速いと知れ (Don’t think you are, know you are)」と言うところ。

つまり、「本能的恐怖を克服しなければ自転車に乗れるようにはならない」のですが、それと「労働者を保護するよりも規制緩和によって失業率が低下する」という言説を信じられるかどうかというのは、同じ構図でしょう。

近視眼的な正義が、結果的には大きな社会的不正義を生んでいることに気づくべきだ。

via: 1段階論理の正義 – 池田信夫 blog

本能が司る感情的認知と理性は別物。本能的恐怖感を超えて、帰結主義的に正しい道を選ぶことが出来るかどうか。

この21世紀、我々人類の理性が試されている、といっても過言ではないでしょう。

部族社会で生きてきた日本は、いま否応なくそれを捨てることを迫られている。資本主義は人々の精神的な紐帯を断ち切り、格差を拡大する。ハイエクは、「資本の文明化作用」を肯定したマルクスと同じく、こうした変化を不可避で望ましいものとしたが、本当にそれは人間を幸せにするのだろうか。それ以外の道はないのだろうか。

via: ハイエクの政治思想 – 池田信夫 blog

3月 29, 2009

官僚支配

カテゴリー: Japan, bureaucracy, politics — hidetox @ 11:16 am

 官僚が国民を支配する要諦は「守る事が難しい法律」を作る事である。車の法定速度を守ったら渋滞が起きる。誰も守っていないのが普通である。警察は普通は見逃している。それで国民生活に支障はない。しかし時々警察は捕まえる。運転手は「運が悪かった」と思う。この時々警察の都合で捕まえるところに官僚の「裁量」が働く。官僚は法律違反を常に見逃しながら、都合で取り締まる。警察に歯向かう人間は取り締まられ、警察にゴマをする人間は見逃される可能性がある。

 スピード違反だけの話ではない。公職選挙法も「厳格に守った人間は必ず落選する」と言われるほど「守る事が難しい法律」である。「お目こぼし」と「摘発」は警察の思いのままだ。税金も「何が脱税」で「何が節税」かの区別は難しい。政治資金規正法も「守るのが難しい」法律である。みんなで同じ事をやっていても、取り締まる方が目をつけた相手は「摘発」され、同じ事をやっているその他は「お目こぼし」になる。これで政治家はみな官僚に逆らえなくなる。

 政治資金規正法を厳しくすると、最も喜ぶのは官僚である。これで政治が官僚より優位に立つのを抑える事が出来る。政治が力を持てばいつでも「摘発」して見せ、メディアに「政治批判」をさせ、国民を「政治不信」に堕ち入るようにする。「政治不信」こそ官僚にとって最も都合が良い。これで政治家を官僚の奴隷にする事が出来る。その事に協力してきたのがかつての野党とメディアである。

 「政治は汚い」と国民に思わせるように官僚は仕組んできた、それに応えてメディアは「政治批判」をする事が「権力批判」だとばかりに、口を極めて政治を罵倒し、官僚と言う「真の権力」にゴマをすってきた。国民はこの国の権力の本当の姿を見せられないまま、政治に絶望してきた。

via: 政治とカネの本当の話(1) (田中良紹の「国会探検」)

自民党の選挙はアメリカ型に近いのだが、日本で「金集め」は「悪」である。日本とアメリカ政治の何が一番違うかと言えば、政治と官僚の力関係である。アメリカは政治が官僚より優位に立ち、官僚をコントロールしている。日本では官僚が政治より優位にいて、政治が官僚にコントロールされる。官僚が最も嫌がるのは政治が力を持つことだ。そのため力の源泉になりかねない要素をことごとく封じ込めた。

via: 政治とカネの本当の話(2) (田中良紹の「国会探検」)

 かつて税制上認められていた政治献金は企業の「交際費」である。与党の1年生議員は当選すると企業を回って歩き、後援会への入会と政治献金を求めた。まだ企業が総会屋に利益供与を行うことが認められていた時代には、総会屋を担当する総務部が政治家も担当した。企業にとって政治家は総会屋と変わらず、何かの時の保険で、積極的にはお金を出したくない存在だから、政治家が企業から献金を受けるのは大変だった。

 そうした時に頼りになるのが官僚組織である。民間企業の許認可権を持つ役所が口を利けば、企業は直ちに献金してくれる。議員が大臣になりたがるのは、大臣になればそれ以降は役所がずっと面倒を見てくれるからだ。献金も集めやすくなる。選挙の票も集めてくれる。そして情報も教えてくれる。これが官僚組織が政治家をコントロールする手口である。こうして族議員が生まれてくる。

 政治家が自分で金を作ることや、民間が政治家を育てることは司法によって摘発の対象となった。そして「濾過器」を通らないと「汚れたカネ」として摘発の対象になる。これが政治を官僚組織に従属させ、国民を支配する官僚のノウハウなのである。

via: 政治とカネの本当の話(3) (田中良紹の「国会探検」)

本来、政治資金規正法の主旨は金額の「規制」ではなく、カネの「入り」と「出」を透明化することである。誰からいくら貰い、何に使ったかが分かれば、その政治家の働き振りが分かる。大して仕事をしない政治家は「入り」も「出」も少ない。政治活動を活発に行う政治家は金額が大きくなる。その使い道を見て有権者は政治家として有能かどうかを判断する。ところが三木内閣は「クリーン」を売り物に、世界の民主主義国がやらない金額の「規制」に踏み込んだ。これは政治の力を弱めたい官僚には都合が良かった。

via: 政治とカネの本当の話(3) (田中良紹の「国会探検」)

「企業は利潤を求めるから企業献金は賄賂になる」と言った新聞記者がいた。日本はいつから社会主義国家になったのだろう。利潤追求を「悪」だという民主主義国家を私は知らない。それを言うなら私企業を全廃しなければならなくなる。新聞記者の所属する新聞社は利潤を追求しないのか。利潤を追求すると新聞の使命を果たせないのか。企業は社会的必要があるから生まれる。企業が追求する利益が社会と相容れないはずがない。それを「悪」だと言うのは「官僚の論理」である。官僚は本質的に「社会主義者」だから企業の利潤追求を苦々しく見ている。その思いをかつての社会党が代弁して自民党の足を引っ張った。それに新聞・テレビが追随し官僚組織にゴマをすった。55年体制の愚かさがいまだに続いている。

via: これじゃオバマは生まれない (田中良紹の「国会探検」)

危機を脱するためにはこの構造に目を向ける必要がある。戦前の指導者は大恐慌に対抗して資本主義を排し統制経済体制を作った。それが戦後の高度経済成長をもたらした。しかし官僚統制型経済、製造業に特化して輸出で外貨を稼ぐ仕組み、官僚主導を担保するため政権交代をさせない仕組み、それらは既に限界に来ている。にもかかわらず構造だけは生き残って「百年に一度の危機」を招いた。今の日本に必要なのは次なる構造転換を構想出来る指導者である。景気対策程度で力んでいる場合ではない。

via: 危機が求めるもの (田中良紹の「国会探検」)

ぼくは以前から、納税者の視点で検察の捜査を監視すべきだと思っていて、いろいろなところで書いたり言ったりしてきました。
検察庁に限らず国の役所(霞が関)は、会社でいえば管理部門で、それ自体が何の生産も稼ぎもしない、いわゆるコストセンターです。

しかし、彼らには自らがコストセンターであるとの自覚がありません。
税金を投じた活動の効果がどれだけあがっているか、まったく検証されていないのです。
世の中、そんなお気楽な仕事をしているのは、霞が関しかありません。

via: 納税者の視点で検察の捜査を監視しないと (山口一臣の「ダメだめ編集長日記」)

誰も「仕事しないでもクビにならず、高給で、多額の退職金が出て、そのうえ多額の年金までもらえる」ような既得権を手放そうとはしませんから。

via: analog | この国は役人でつぶれそうです

「政府(官僚)」と「政治(政治家)」の区別がついてないのは最悪だ。官僚機構は自己保身で肥大化するし、民営化や規制緩和に抵抗する。これを止められるのは政治だけだ。我々が政治を応援しない限り、民営化や規制緩和は実現しない。小泉郵政民営化が圧倒的な民意の支持により達せられたことを思い出そう。

via: analog | 政府と政治の区別はついてる?

政治は、政府(官僚)の役割を縮小し、より小さな政府を実現するため、各種の規制を撤廃し、公共事業を削減し、より多くの政府機能を民営化すべきだ。その結果として個々人は財政規模縮小、減税の恩恵を受ける。

via: analog | 政治、政府、報道、民衆の構図

最後に、個人の自由とは逆の問題について取り上げる。個人の自由を政府が支援することについてである。これについて、政府の支援に対する反対意見は3つ上げられる。

 第1に、政府が事を成すよりも個人が事を成した方が効率的な場合があるという主張である。これは、経済学者によって説明がなされているのでここでは取り上げない。

 第2に、個人は政府よりも効率的に仕事を処理できないが、個人自らの精神教育の一環として、個人によって仕事が処理された方が望ましいという考え方である。これは、国民教育の問題とも関わってくるがここでは取り上げない。ただひとつ言っておくべきことは、個人がこのような仕事に従事することは、個人的なあるいは家族的な小さな世界から個人を抜け出させ、社会との結合を強く認識させる契機となる可能性が高い点である。社会との結合を認識しなければ、自由な社会というものは創造できないし、維持もできないのである。

 第3番目の理由は、不必要に政府の権力を増大させるという指摘である。政府の機構が大きくなり、個人の活動が政府に支えられるという事態になった場合、法的に自由な社会が維持されていたとしても、それは名目上のことに過ぎない。

 人類の進歩と自由を妨げるものを確定し、利益を多く確保しつつも大きな政府を作らないようにする。それは政治にとって最も難しい問題である。これを解決するには、人材を地方へ分散し自由に活動させ、中央は情報統制のみを行うという方法が良いだろう。政府が様々な点まで口を出すようになると、国家の活力は失われてしまうと考える。

via: J.S.ミル『自由論』

3月 28, 2009

北朝鮮への旅

カテゴリー: Uncategorized — hidetox @ 10:42 pm

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この画面

3月 27, 2009

定額給付金への評価

カテゴリー: 定額給付金 — hidetox @ 12:25 am

 ご質問の趣旨は定額給付金の是非ではないと思いますが、はじめに定額給付金に関する評価について述べたいと思います。私は、定額給付金を、それほど悪い政策だとは思っていません。

定額給付金は、基本的には減税を、税率から見ると低所得者に対して手厚く行う政策です。給付金は差し引きの効果としてその多くが貯蓄に回るので、同額の公共事業などの財政支出に比して景気浮揚効果が小さいという批判がありますが、定額給付金の使い途は、貯蓄も含めて国民一人一人が決めるので、資源配分の無駄が起こりにくい点をもっと評価していいのではないかと思います。副作用が小さい政策の方がいいし、効果が足りないというなら、金額を増やせばいいのではないでしょうか。

定額給付金に関連して大いに警戒すべきは「給付金のような単なるバラマキよりも、もっと有効なお金の使い途があるはずだ」と言い募るような議論です。私は、たとえば2兆円の的確な使い途を政府が発案し実行することは、そう簡単ではないと思っています。言い換えると、政府を信用していません。G20で決まりそうな「GDPの2%以上の財政支出」についても、それ自体として不要不急、使い方が非効率で、官僚の利権となり、特定の業界の食い物にされるような支出がたくさん混じるのではないかと心配です。

via: [JMM]村上龍、金融経済の専門家たちに聞く Q.1002 回答:山崎 元

3月 26, 2009

地獄への道は善意で敷き詰められている

カテゴリー: politics, quote — hidetox @ 11:46 am

超重要

善意を持っている人、「いい人」でも、その考え方が「正しい」とは限らない。むしろ、間違っていることが少なくないのだ。「善意」によって、誰かをむしろ悪い方向に導いてしまう、ということはよくある。これが政治のように規模が大きく、重大な判断である場合、「善意の間違い」が多数派を占めたり、権力を持ったりすると、それが「地獄への道」になりうるわけだ。

「善意の間違い」が恐ろしいのは、表向きは「悪」に見えないこと、また善意の持ち主である本人は「悪」だと思っておらず、正しさを確信していることだ。だからこそ、それが多数派になったり、権力を持ちうる。

いかにも悪い人とか、悪意が見えているような悪事・間違いは、わかりやすい。悪であることには違いないが、悪であることが明白なので、支持されず、権力を持ちにくい。その意味で、この種の悪は「弱い」ものであり、「本質的な危険性」を持っていない。

「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉は、「わかりやすい悪」よりも「善意の間違い」のほうがはるかに恐ろしく、危険だということを実にうまく表現していると思う。

via: 地獄への道は善意で敷き詰められている(The road to hell is paved with good intentions) – Zopeジャンキー日記

ハイエクが本書で繰り返し強調するのは、個人に理解しえない力が社会を動かしているということだ。「派遣村」を支援する人々が善意でやっていることは疑いないが、彼らの求めるように派遣労働を禁止したらどうなるかは別の問題だ。逆に主観的には「強欲資本主義」であっても、その強いインセンティブを適切なルールによって制御すれば、生産性が上がって労働者の待遇を改善する場合もある。それが「見えざる手」の意味である。

しかし、このように主観的な意図と違う客観的な結果が生じることは、啓蒙主義以来の合理主義の伝統においては、あってはならない。そのもっとも影響力の強い思想が、マルクスの「必然の国」と「自由の国」という歴史観だ。彼によれば、人々の意図とは違う資本主義の「必然」が人々を支配するのは、人的関係が物的関係として「錯視」されるブルジョア社会の病であり、「自由人のアソシエーション」によってこれを転倒すれば、人は自分の運命の支配者になり、人類の「前史」は終わる。

この理想は美しいが、社会を動かす法則が透明でコントロール可能だという誤った前提にもとづいている。昔から科学者や法律家にマルクス主義者が多いのは、偶然ではない。彼らの世界では、意図と結果は1対1に対応しているからである。しかし社会主義の失敗が証明したように、社会という複雑なシステムを計画的にコントロールすることは、不可能で有害なのだ。本書はそれを理解している人には退屈だが、民主党の議員は全員、本書を読んだほうがいいだろう(小沢代表は読んだはずだ)。

via: 隷属への道 – 池田信夫 blog

3月 19, 2009

ハイエクの「自生的秩序」

カテゴリー: economics, liberty, society — hidetox @ 9:52 am

市場から中央集権的なルールが現れる。それは経済学者が驚くことかもしれないが、マーケティング戦略の専門家なら当然だと言うだろう。スケールフリーネットワークの一極集中や、スイッチボードモデルのネットワーク外部性など、典型例だ。

Yahoo!やGoogleは、その最たるものだ。Google.govなんていうジョークがあるくらいで、一企業がWebのアーキテクチャを規定しているようなものだ。

ハイエクは、市場における自由を政治的な自由を確保するための絶対条件として考えましたが、政治における中央集権的な体制以前に、実際には市場において中央集権的なシステムが成立してしまったことになります。このことをハイエクはあまり考えていませんでした。

「小泉構造改革」は誤解の集積だった:日経ビジネスオンライン

それにしても、この記事はいろいろと考えるべきテーマを含んでいる。

3月 18, 2009

定額給付金批判と寄付経済

カテゴリー: bureaucracy, charity, economics, politics, society, 定額給付金 — hidetox @ 5:44 am

今回の定額給付金では、国民のほぼすべてが思わぬ余剰金を手にすることになる。その単価は1万円以上。しかも、給付自体に異を唱える国民が一定数存在する。何のために税金を納めたのか。莫大な経費をかけて徴税し、莫大な経費をかけてばらまく意味はあるのかと。
シリーズ 変なニッポン 3 ゴリ押し定額給付金、 使い道も政府の言いなりですか?:日経ビジネスオンライン

定額給付金は「バラマキ」ではない。「取りすぎた税金を還す」ことだ。定額給付金という手法自体は、別に悪くない。もちろん、国債を発行してやるようなことではないが。

税金ではなく寄付を納め、公益に与する“寄付政治”の揺籃が、今まさに起こりつつある日本。霞が関で予算を奪い合っている人たちは、何を思うのだろうか。

小さな政府、最小国家、無政府資本主義という政府解体の過程は、政府の仕事を民間が奪っていく過程でもある。

ミルトン・フリードマンは寄付に肯定的だったが、ウォルター・ブロックは寄付に否定的だ。いまの私は、どちらかというと否定的だ。

政府もNPOもない世界。税金によっても寄付によっても「公的サービス」は提供されない。あらゆるものが私企業によって提供される。本当に可能だろうか? もっと考えていく必要がある。

【定額給付金基金】-みんなの寄付で世界を変えよう-|寄付文化を創造する「チャリティ・プラットフォーム」

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