Archive for the ‘philosophy’ Category

Confident: やりきる

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Sunday, June 15th, 2008

「私が考えるに、『自信』とは、『これ以上できないところまでやった。これしかできなかった。仕様がない』ということが大前提となるものです。『もっとやっておけばよかった。遊んでしまったけど、そのときやっておけばもっとできたかもしれない。それがちょっと心の隅に引っかかる』というような気持ちが少しでもあると、本番で自信がぐらつくものです。これ以上できない、というところまでやって、それが自信となって、目標を勝ち取る、この経験はとても大きなものです。」 千住博 via: やりきった上での「自信」。 - [ めのうら。] ここで、実践者としては一種の諦め、達観が必要でしょう。 やるべきことはすべてやる(=完璧な仕事をする)けれど、しかし結果が失敗に終わるかもしれない(=結果としての失敗)。ただ、それは仕事そのものの良し悪しに、なんら影響をあたえるものではない。結果の失敗があったとしても、「完璧な仕事」のやり方を改める必要はない。 このことを昔の人は「人事を尽くして天命を待つ」と言ったのです。 via: analog | Never Be Perfect: やるべきことをやりきる

Thought: 考えるヒント

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Sunday, June 8th, 2008

『考えるヒント』 小林 秀雄著 福沢諭吉 太平の世は、考える必要を奪う。過渡期ではない時代などない。平時にあって有事を忘れるべからず。明治の激動に生きた思想家は要求する。考えろ、と。 過渡期とは言葉ではない。(略)自らが、めいめいの工夫によって処すべき困難な実相である。処すべき実相を答案の容易ある問題にすり代えてはならぬ。過渡期は外に在る論議の対象ではない。「一身にしてニ生を経る」君自身の内的な経験そのものである。これが福沢の説いた「私立」の本義であり、彼の啓蒙が目指したものだ。これは難しい事であった。今日ではもう易しい事になったと誰に言えよう。過渡期でない歴史はない。 「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は「私立」の内を腐らせる。福沢は、このことに気附いていた日本最初の思想家である。 言葉 言葉は、考える道具である。ただ、言葉が大手を振って偉そうな顔をし過ぎている。言葉は方便に過ぎない。ある言葉から想起されるものは、人によって微妙に異なる。言葉による意思疎通の限界がここにある。言葉が万能であるかのような時代、意思疎通や共感とは言葉だけでないことを忘れずにいたい。阿吽の呼吸で通じ合う老夫婦に学びたい。 姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。 ネヴァ河 作家は、作中人物を、心の中で生きてみるものだ。作中人物に命を与えるものは、観察力ではない。愛情あるいは情緒と呼んでいい精神の力である。これは、現代の小説家たちには、非常に困難な道になってしまっているが、この作者が乗越えているのは、その困難なのである。 自分のことを書きなさい。ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて。 引用:analog | Writing School: 一億三千万人のための小説教室

Over Achievement: 働きたがる脳

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, June 7th, 2008

我々は、やりすぎてしまう。もっと、もっと。必要以上に。 労働は「オーバーアチーブ」を志向する。 飢えが満たされても満たされないのである。 もっと働きたいのである。 via: 労働について (内田樹の研究室) 人間ではない知的生物がそれを観察すれば、およそ合理的な生き物に見えないだろう。なぜリターンの必要以上にインベストする必要があるだろうか。必要なリターンを得れば十分なはずである。 どうやら我々は脳のどこかに「欠陥」を抱えているようだ。しかし、その「欠陥」を抱えた我々の祖先が、そうではない者達よりも繁栄したからこそ、我々の祖先であるのだろう。その「欠陥」を持たなかった者達は、今日に至るまで発展しなかったようである。その「欠陥」が生存競争においてどのような力学上の意味を持つのかは分からないが、どうやらそういうことであるらしい。 我々は「腹八分目」とか「足るを知る」とかの言葉を理解も納得も出来ない、そういう生き物なのかもしれない。そうであろうと、あるまいと、我々の幸せとは、我々の知覚の問題であるからして、好むと好まざるとに関わらず、その頭蓋の中に納まっているぶよぶよした脳みその傾向によって決まる。そんなものに決められたくない、主体的に自分で幸せの基準を決める、といっても詮無いことだ。そう考える自分を、考えさせているのが、そのぶよぶよなのだから。 そういう自己循環構造のなかで、人間の思考力は限界に苦しむ。悩みに悩みぬき、現実世界に対して理想世界や神といった絶対座標系を導入することによって、みずからを相対化し、安定した足場、心の拠り所を得て安心するという方法を発明した。西洋思想はそういったものであるようだ。ただ、デカルト、パスカル、カント、サルトルなど、みんな悩んだようだ。 一方、そのぶよぶよを、あるがままに、前提として受け入れ、自分の性質(nature)つまり自然現象に抗うことをやめてしまう。そうすれば悩みは、迷いは無くなるだろう。確固たる足場は無いが、ぶよぶよの上で、みずからも揺らいでいればいいではないか。沈むまいと必死に泳げば体力を消耗するが、寝そべっていれば沈まない。ただ流されるだけだ。ゴータマ・シッダッタという人が得た気付き、悟りとは、どうやらそういうものであるらしい。それが禅という思想になって今日まで伝わっている。 心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな  最明寺入道時頼 via: 碌々(ろくろく)ブログ 心に心を許さない ぶよぶよが労働を好きだというなら、仕方ない。そこから逃れるのは難しい。ぶよぶよには勝てない。頭は理性で、ぶよぶよは感情だ。頭でいくら考えたところで、ぶよぶよは従わない。 働けばよい。その単純な事実に気付く妨げになっているのが「なぜ働くのか」とか「天職とは何か」とかいった当世風の悩みであるようだ。働く理由など見つからなくても、働けばよい。天職など分からなくても、働けばよい。いや、働かざるを得ない。生きる糧を得るために。きっかけはそれで構わない。働こう。隠居するまで続いた仕事が天職だ。天職とは、探すものではなく、あとから気付くものだ。最近の若者はそういう素朴な考えとは程遠いようである。 悩むべきは「なぜ働くのか」とか「天職とは何か」とかいったことではない。「いかに生きるべきか」という問題だ。倫理とか哲学とか修身とか、いろんな言い方があるが、そういうことだ。労働ごときに悩むよりも、そちらのほうが余程重要ではないか。労働など生きることの一部にすぎない。労働に悩む暇があったら、とりあえず働いてみて、働きながら文学や哲学でも読んでいればよい。「いかに生きるべきか」を考えるなかで、あるいは自分に適した仕事といったものが見えてくるなら、それはとても幸せなことだ。 労働観なんて考えるものじゃない。人生観から自然と生まれるものだ。働こう。 とりあえずそこらへんの木の実を拾ったり、魚を釣ったり、小動物を狩ったりして飢えが満たされるのなら、誰が分業だの企業だの資本だのというめんどうな制度を作り出すであろう。 労働は「オーバーアチーブ」を志向する。 飢えが満たされても満たされないのである。 もっと働きたいのである。 そういう怪しげな趨向性を刻印された霊長類の一部が生産関係をエンドレスで巨大化複雑化するプロセスに身を投じたのである。 どうして「そんなこと」を始めたのか、私は知らない(たぶんマルクスも知らない)。 とにかく、そういうことになった。 via: 労働について (内田樹の研究室) Homo sapience ホモ・サピエンス 考える存在 Homo socialis ホモ・ソシアリス 社会的存在 Homo loquens ホモ・ロケンス ことばを操る存在 Homo ridens ホモ・リデンス 笑う存在 Homo ludens ホモ・ルーデンス 遊び・芸 Homo faber ホモ・ファベル 働く存在 Homo amans ホモ・アーマンス 愛の存在 Homo religious ホモ・リリギオス 宗教心 via: 引用元PDF

Look Forward: ますます賢く

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Wednesday, June 4th, 2008

読むたびに泣く。この文章も、書きながら泣いている。 いい人間になりたい。利口になり役にたつ人間になりたい。 賢くなりたい。    ますます賢く        武者小路実篤  僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。  人間もいくらか老人になったらしい。人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。  しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。  ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。  皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いゝ人間になりたい。  いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。  僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。  人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。  ますます利口になり、万事賢くなりたいと思っている。我々はますます利口になりたく思っている。  益々かしこく。

Progressive Management (Summarized): 経営の未来(要約)

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Wednesday, June 4th, 2008

さきほど書いた「analog | Progressive Management」の要約。 齢九十過ぎまで経営について考え続けたマネジメントの始祖ドラッカーの理想を我々は実現しないままに、その先の「経営の未来」などを考えるのは、まるで我々がドラッカーを「超えた」かのような拙い錯覚によるものだ。まずドラッカーが思い描いた理想の経営を実現すべく努力すべきだ。

Progressive Management: 経営の未来

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Wednesday, June 4th, 2008

「経営の未来 マネージメントをイノベーションせよ」 -- 神泉ではたらくたまごのブログ とてもよいまとめだ。ありがたい。こうしてみると、あらためて、私がこの本へ抱いた違和感がくっきりと見えてきた。 古代ギリシャで誕生して約2500年を経てもまだ、民主主義という分野では上るべき山がある。そのように考えるならば、近代経営管理がわずか100年の進歩で、その変化の潜在力を使い果たしたと決め付けるのは傲慢だろう。それは、20世紀に人類に大いに役立った技術が21世紀が求めるものにも等しく適していると決め付けるのと同じく、ばかげたことだ。 ここに大きな違和感を感じるのだ。人が人を統べる方法において古代も現代もあるものか。古代ギリシアの政治や軍隊組織よりも、現代のわれわれはよりよく組織運営している、などと無邪気に信じるとすれば進歩主義の浅薄さも極まったものだ。いまだに孫子の兵法や三国志に学んでいる経営者が数多くいることを考えてみるがよい。多くの人の常識にも一致する。人間の実相というものは古代より何も変わっていないと考えるのが、連綿たる歴史に対する敬意というものだろう。先人への敬意というものだろう。現代の目で過去を見てはならない。自分が過去のその時点において実際に生まれ、生きていたとして、そのときの彼らよりも優れた先見性でもって、何らかの判断ができたはずであろうなどとどうして言えようか。そのような考え方は歴史に対する理解の浅さでしかない。人類の、先人の、尊い営みに対する冒涜でしかない。ソクラテスやプラトンほどの深い思索によって現代の我々は世界を見ているだろうか。みずからの哲学に殉じたソクラテスほどの深みをもって我々は物事を考えているのだろうか。 安易な進歩史観が人間の進歩を止めるのだ。我々はただ現在に生きているというだけで過去の人よりも優れている、もしくは先に進むことができるなどと馬鹿げた考えを持つべきではない。過去の人々の到達点を、みずからの出発点だと思ってはならない。人間が人間について考えるうえで、みずから考えずに教科書かなにかで仕入れた知識で考えたふりをするなど馬鹿げたことだ。人間が人間について考えるときにはみずからの頭で考えるしかない。それが出発点だ。先人の歩みの先ではない。先人の歩みを第一歩から辿るしか道は無い。 そうでなければ人類の叡智とはいったいなんだというのだ。科学技術の知識のことか。そうではあるまい。人間が人間の真相について徹底して考えた、その結論ではなく過程をこそ、我々は先人の叡智として辿るべきなのだ。そして人間が二千年やそこらでは変わらないことと、人間が自分で考えることのできる時間は寿命によって限られていることを考えれば、とてもではないが二千年前の哲人達と同じ高みに到達することが容易であるなどとは思えないはずである。 現在とは明日の過去だ。我々は少しの油断も無く未来へ向かって努力しなければならず、そこまでしても二千年前の哲人達と同じ視座を得ることは一生のうちにかなわないかもしれないという覚悟をもって、先人の知恵に向き合うべきなのである。 そうしなければ人類は世代ごとに愚かになってゆくであろう。みずからの出発点が先人の歩んだ到達点から始まる、という誤解は危険ですらある。 人間が人間性について考えたことは、残念ながら科学技術のように伝承できるものではないのだ。生れ落ちて死ぬまでのあいだに考える。賢くなる。そして死を迎える。それで終わりだ。一生をかけて考たことは、そっくりそのまま誰かに引き継がれたりしないのだ。ただ、その思索の過程を言葉として伝えることはできる。だから我々はその言葉に触れて自分で考える肥やしにすることはできる。だがそれだけだ。先人の言葉は自分の頭で考えることの代用品にはならない。 「経営の未来」に話をもどそう。そもそも経営(マネジメント)の祖は誰かというとドラッカーだ。齢九十を超えてまで経営を考え続けたドラッカーという人の思考の過程を追うだけでも容易ならざることだろう。その結論めいた上澄みだけを味見して心得た気になるとは勘違いも甚だしい。ほんとうの智恵とは彼が何を得たか知ることではなく、彼がどのようにしてそれを得るに至ったかを辿ることである。彼の人生、考えた時間の長さにくらべて高が数年の時間ではとても足りないだろう。辿ることはできないだろう。 ふたたび引用する。 古代ギリシャで誕生して約2500年を経てもまだ、民主主義という分野では上るべき山がある。そのように考えるならば、近代経営管理がわずか100年の進歩で、その変化の潜在力を使い果たしたと決め付けるのは傲慢だろう。それは、20世紀に人類に大いに役立った技術が21世紀が求めるものにも等しく適していると決め付けるのと同じく、ばかげたことだ。 たしかに、いつの時代も方法の進化の余地はある。むしろ「完成」したかに見えるところに新たな努力を発明するのはある種の天才の仕事でもある。そういう努力の発明によって人類は進化してきたと言っても過言ではない。いつの時代でも、もっと賢く、よりよく、生きていこうという前向きな考え方は尊い。それをなんら否定することはできない。 しかし、我々はドラッカーが見た経営の本質を実践すらしていないのに、何ひとつ実践として「完成」させていないのに、その先へ行こうというのか。ドラッカーとは実践を伴わずに理解できるほどの知識しか述べなかった人物か。私にはそうは思われない。我々はまだドラッカーが描いた経営の理想を実現していない。誤った成果主義や、不完全な会計制度で右往左往しているのが我々の実態だ。ドラッカーの考えた仕組みは導入されたが、ドラッカーが考えた通りに実行はされていない。我々はまずドラッカーの考えた経営の理想を完璧に実行できるようになるべきだろう。 経営管理の「技術」は、20世紀前半に急速に進化したのち、現在は近場の山の頂上に到達しているのである。エベレスト級の山ではなく、そこそこの山だ。 我々が登り切って力尽きている山は、ドラッカーが思い描いた経営の理想という山なのか。我々が高尾山を登り切って力尽きているだけなのであって、ドラッカーが思い描いたのはエベレスト級の山々ではなかったのか。 人々はドラッカーが考えた仕組みの、形だけを導入して失敗した。今度はドラッカーがそれらの仕組みを着想するに至った問題意識を、彼の思索の遍歴を辿って理解すべきではなかろうか。ドラッカーが語ったのは経営管理の「技術」やノウハウといったものではない。むしろ徹底した人間観察の果てに得られた智恵である。 経営管理の「技術」を問題にするまえに、経営とは何かについて、ドラッカーと同じ高みにおいて、深みにおいて、我々は考えたことがあるのだろうか。その思索を経たのち、あらためて、かつて失敗した仕組みを試してみるべきではないか。それにより、かつてなくドラッカーの考えた経営の理想に肉薄できるのではないだろうか。 そう、「経営の未来」とは、経営(マネジメント)の祖が考えたことをすべて実践したうえで、はじめてその先に見えてくるものではないか。その先を考えるのは、語るのは、まだ早いのではないか。私にはそう思えてならないのである。 続編→analog | Management Revisited: 経営の未来(再)

Error and Failure: 過程と結果

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Thursday, May 15th, 2008

「ミス(過失)」と「失敗」の厳密な区別をしたいものだ。 「ミス」とは過程。同じミスを繰り返さないことで、完璧な仕事に近づく。分野によってはミスをゼロにすることもできる。 「失敗」とは結果。ミスをなくしても、同じ失敗が起こる可能性がある。失敗の要因が人為ミスではなく環境変化によるとしたら、もはやミスではない。不可避だ。(しかし、その環境変化が予測可能だったならば、ミスになるかもしれないが) ここで、実践者としては一種の諦め、達観が必要でしょう。 やるべきことはすべてやる(=完璧な仕事をする)けれど、しかし結果が失敗に終わるかもしれない(=結果としての失敗)。ただ、それは仕事そのものの良し悪しに、なんら影響をあたえるものではない。結果の失敗があったとしても、「完璧な仕事」のやり方を改める必要はない。 このことを昔の人は「人事を尽くして天命を待つ」と言ったのです。 via: analog | Never Be Perfect

Never Be Perfect: やるべきことをやりきる

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Thursday, May 15th, 2008

「完璧な仕事」と「失敗が無い」ことはイコールではないですね。完璧な仕事をして、失敗することがある。「不可避な失敗」が存在する。いいかえると、私の考えでは「完璧な仕事」を「結果としての失敗のないこと」で定義するのは誤り。重視すべきは結果ではなく過程のほう。 実は過去のケースもホワイトバンドと大差無い甘い見通しでやってきていたが規模が小さかったから偶然うまくいっていただけの話で、ホワイトバンドでは規模を大きくしたために根本的な問題が顕在化した、とかそういう話だったりしたら嫌だな、と。いや、工学分野における失敗学の嚆矢とされる 橋はなぜ落ちたのか とゆう本に失敗のパターンとしてそういう例が挙げられてるんです。 via: raurublock on Hatena 「規模を拡大することで、潜在的な失敗要因の影響が閾値を超えて、失敗が実現してしまった」というパターンだとしたら、該当するかもしれませんね。 ただ、それが分かったとして、回避できない。 その本をまだ読んでいないので想像ですが(いま買いました)、この紹介文「橋はなぜ落ちたのか 設計の失敗学、ペトロスキー」を読む限り、「未知の失敗は回避不可能」だ、という主張なのかなと。私もそう思います。 失敗のない――過去の成功モデルは、設計が完全であることを証明しない。なぜなら、潜在的な失敗要因が、まだ経験されていない条件によって引き起こされるかもしれないからである。 そもそも「潜在的な失敗要因」すべてを網羅できない。また、「経験されていない条件」が多すぎる。マーケティングは社会科学であり、厳密な実験ができない。同一条件を再現することができない。再現性が無い。だから、未知の失敗が起こる可能性が残ってしまう。 架空の失敗例で説明を。 テレビCMを開始した直後に、そこに出てくる表現が不適切になってしまうような事故。CM中で地震の場面がコミカルに使われており、実際に大地震が起こる。こんなの予測不可能。「そういう事例があったなら、地震はネタにしなければいい」って? 映画「ジョーズ」にかけてサメが襲ってくるCMを作ったら、人が実際にサメに襲われて死亡した。これでも「事前に回避可能」でしょうか? そういう事故をネタにするからダメ? かわいい赤ちゃんが出てくるCMを流していたら、その親が殺人事件を起こした。これ想定可能? 論理的にいってマーケティングには「失敗をゼロにできない」という宿命がある。だから残念ながら「完璧な仕事」が「失敗ゼロ」を保証しない。 ここで、実践者としては一種の諦め、達観が必要でしょう。 やるべきことはすべてやる(=完璧な仕事をする)けれど、しかし結果が失敗に終わるかもしれない(=結果としての失敗)。ただ、それは仕事そのものの良し悪しに、なんら影響をあたえるものではない。結果の失敗があったとしても、「完璧な仕事」のやり方を改める必要はない。 このことを昔の人は「人事を尽くして天命を待つ」と言ったのです。 蛇足: 人間の「後知恵バイアス」はものすごく強力でやっかいだと自覚しない限り、さも「わかったふう」になって、自分はそんな失敗しないと思い込んで、失敗しちゃう。人間って浅はかなので。 詳しくは「まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」参照。 この本はことあるごとに紹介することになると思う。というかサイドバーからリンクすべきだと思った。

In the beginning was the Philosophy

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, May 10th, 2008

はじめに理念ありき。 独立企業は起業家の「情熱」によって創業される。 創業期の企業における最重要資源である。 起業家の「情熱」を社員に伝えるべく変換したものが「理念」である。 まず事業が回り始め「食うには困らない」ようになった企業が、 次に超えるべき壁は「理念の浸透ができるかどうか」である。 つまり、起業はマーケティングに始まり、マネジメントにつながる。

Integrity / Ethics / Aesthetics

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, May 10th, 2008

「いい仕事」は大事だ。しかし、残念ながら、それが「ヒットの秘訣」にはなっていない。 彼らは立ち上げ(シード)段階で素晴らしい仕事をしたようだ。 その仕事は素晴らしいが、しかし、結果としての成功は、 実力よりも運や「まぐれ」によるところが大きい。 (「結果」によって「過程」の良し悪しを評価してはならない) analog | Create to Develop / Random to Sure 「いい仕事」をしなくてもヒットしてしまった事例を数えてみればいい。それだけ反例があるのに「ヒットの秘訣」というのは統計的にいって「間違った議論」だ。標本抽出だって困難だし、全数調査もできないだろう。つまり現代の科学では妥当な議論ができないだろう。(相関関係ですら。ましてや因果関係など) 成功要因の分析結果を見れば、たしかにいくつも成功の要因があっただろうって? 成功事例の分析なんてものは「後知恵バイアス」によって「でっちあげ」られたものでしかない。人の脳みそは過去についてあれこれとでっちあげるようにできている。 控えめに言って「いい仕事をしたほうが成功確率が(多少は)上がる(かもしれない)」だし、はっきりいって「そんなのは気のせい」だ。 ※疑問のある方は「まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」を読むべきだ。 では、「いい仕事」には、意味がないのか? 私は、そうは思わない。 私は「いい仕事」が好きだ。好みの問題だ。思想の問題だ。経済合理性ではない。 世の中が「いいもの」であふれて欲しい、そういう「願い」だ。 安売りの商品や仕事には暗に「こんなもんでいいでしょ?」というメッセージが発せられているような気がしてならない、一方に丁寧に時間と心がけられた仕事がある。素材の旨味を引き出そうと、手間を惜しまず作られる料理。表には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手によるすばらしいプレイに、「こんなもんで」という力の出し惜しみは無い。このような仕事に触れるとき、私達は嬉しそうな表情をする。それは「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを受け取るからだ。 小説の森 - 【西村佳哲】 自分の仕事をつくる 人は「いいもの」を通じて「いい仕事」を読み取り「自分は大切な存在で、生きている価値がある」と感じることができるのではないか。 だとするならば、世の中が「いいもの」であふれることは、みんなが身の回りで「いい仕事」を感じる機会に囲まれて生きていける、ということだ。 そんな世の中にしたいじゃないか。 語弊はあるが、あえて言えば「いい仕事をする」というのは企業倫理の範疇のことなのだ。カネだけではない論理、つまり「倫理」で動けるかどうかの問題だ。カネの論理ならば「売れればいい」となり、できるだけ「コストを削減」して「利益を最大化」するのが正しい、ということになってしまう。 そこに必要なのは会計、財務、経済学、工学、科学といったものではない。 倫理、哲学、思想、宗教といったものだ。 突き詰めれば、経営の「美学」だ。 よって、私は「経営とは経営者の全人格をかけた自己表現」と考えている。