Archive for the ‘philosophy’ Category
Monday, September 22nd, 2008
教養を得る努力は実践に役立つ。
10年前は教養の価値を知らなかったが、ようやく分かってきた。弄するための知識ではなく、生きるための知恵として学ぶならば、教養は武器になる。
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Thursday, August 21st, 2008
「生きる」とは無条件に価値あることだろうか?
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Friday, August 1st, 2008
本編(1)
正常な人間とはなんだろう? ひどいこと、下劣なことを一度もしたことがない人間だろうか? その通り。しかし、下劣なことを一度も考えたことがないなんて人間がいるだろうか? いや、ひょっとしたら考えたことさえなくても、十年か三〇年か前にその人間のうちにひそむ何かが勝手に考え、湧き出てきたことくらい、あるんじゃないかな。人間本人のほうはそれから身を守り、忘れてしまい、自分がそれを実行に移さないとわかっているので、それをもう恐れることもないーーーそんなことが。さて、今度はこんなことを想像してみて欲しい。あるとき突然、他の人たちの真っただ中で、昼日中にそれが実体化して肉を備えた姿となって現れ、きみにまとわりつき、それを叩き潰そうとしてもどうにも叩き潰せないーーーそうなったら、どうだろう? それはどんなものだ? pp.117-118
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Sunday, July 27th, 2008
この法案は、18歳未満の青少年に有害情報を閲覧させないようにすることで、青少年の健全な育成に寄与することを目的としている。ここで想定されている有害情報とは、平たく言えば「わいせつ」「人死に」「犯罪」「売春」「薬物」「いじめ」「家出」などである。これら有害情報の基準は、内閣府に新たに委員会を設置して、そこが判断することになっている。
小寺信良:臭いものにフタをしても、何一つ解決しない (1/3) - ITmedia +D LifeStyle
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Wednesday, July 9th, 2008
ある人の発言。
自社の発展を誇りに思う感覚が理解できない。
会社は潰れるのが当たり前の時代。
もはや終身雇用の時代でもない。
彼はY世代、就職氷河期世代だ。言わんとすることは分かる。しかし私の考えは違う。
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Wednesday, June 25th, 2008
状況の理解は客観的に。統計や論理思考が役に立つ。
十分に注意しなければ「人は見たいものを見る」という認知バイアスに騙されるであろう。
意志の決定は主観的に。哲学や価値観が役に立つ。
十分に注意しなければ「論理的には正しいが、意味はない」という決定をしかねない。
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Sunday, June 15th, 2008
「私が考えるに、『自信』とは、『これ以上できないところまでやった。これしかできなかった。仕様がない』ということが大前提となるものです。『もっとやっておけばよかった。遊んでしまったけど、そのときやっておけばもっとできたかもしれない。それがちょっと心の隅に引っかかる』というような気持ちが少しでもあると、本番で自信がぐらつくものです。これ以上できない、というところまでやって、それが自信となって、目標を勝ち取る、この経験はとても大きなものです。」
千住博
via: やりきった上での「自信」。 - [ めのうら。]
ここで、実践者としては一種の諦め、達観が必要でしょう。
やるべきことはすべてやる(=完璧な仕事をする)けれど、しかし結果が失敗に終わるかもしれない(=結果としての失敗)。ただ、それは仕事そのものの良し悪しに、なんら影響をあたえるものではない。結果の失敗があったとしても、「完璧な仕事」のやり方を改める必要はない。
このことを昔の人は「人事を尽くして天命を待つ」と言ったのです。
via: analog | Never Be Perfect: やるべきことをやりきる
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Sunday, June 8th, 2008
『考えるヒント』 小林 秀雄著
福沢諭吉
太平の世は、考える必要を奪う。過渡期ではない時代などない。平時にあって有事を忘れるべからず。明治の激動に生きた思想家は要求する。考えろ、と。
過渡期とは言葉ではない。(略)自らが、めいめいの工夫によって処すべき困難な実相である。処すべき実相を答案の容易ある問題にすり代えてはならぬ。過渡期は外に在る論議の対象ではない。「一身にしてニ生を経る」君自身の内的な経験そのものである。これが福沢の説いた「私立」の本義であり、彼の啓蒙が目指したものだ。これは難しい事であった。今日ではもう易しい事になったと誰に言えよう。過渡期でない歴史はない。
「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は「私立」の内を腐らせる。福沢は、このことに気附いていた日本最初の思想家である。
言葉
言葉は、考える道具である。ただ、言葉が大手を振って偉そうな顔をし過ぎている。言葉は方便に過ぎない。ある言葉から想起されるものは、人によって微妙に異なる。言葉による意思疎通の限界がここにある。言葉が万能であるかのような時代、意思疎通や共感とは言葉だけでないことを忘れずにいたい。阿吽の呼吸で通じ合う老夫婦に学びたい。
姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。
ネヴァ河
作家は、作中人物を、心の中で生きてみるものだ。作中人物に命を与えるものは、観察力ではない。愛情あるいは情緒と呼んでいい精神の力である。これは、現代の小説家たちには、非常に困難な道になってしまっているが、この作者が乗越えているのは、その困難なのである。
自分のことを書きなさい。ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて。
引用:analog | Writing School: 一億三千万人のための小説教室
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Saturday, June 7th, 2008
我々は、やりすぎてしまう。もっと、もっと。必要以上に。
労働は「オーバーアチーブ」を志向する。
飢えが満たされても満たされないのである。
もっと働きたいのである。
via: 労働について (内田樹の研究室)
人間ではない知的生物がそれを観察すれば、およそ合理的な生き物に見えないだろう。なぜリターンの必要以上にインベストする必要があるだろうか。必要なリターンを得れば十分なはずである。
どうやら我々は脳のどこかに「欠陥」を抱えているようだ。しかし、その「欠陥」を抱えた我々の祖先が、そうではない者達よりも繁栄したからこそ、我々の祖先であるのだろう。その「欠陥」を持たなかった者達は、今日に至るまで発展しなかったようである。その「欠陥」が生存競争においてどのような力学上の意味を持つのかは分からないが、どうやらそういうことであるらしい。
我々は「腹八分目」とか「足るを知る」とかの言葉を理解も納得も出来ない、そういう生き物なのかもしれない。そうであろうと、あるまいと、我々の幸せとは、我々の知覚の問題であるからして、好むと好まざるとに関わらず、その頭蓋の中に納まっているぶよぶよした脳みその傾向によって決まる。そんなものに決められたくない、主体的に自分で幸せの基準を決める、といっても詮無いことだ。そう考える自分を、考えさせているのが、そのぶよぶよなのだから。
そういう自己循環構造のなかで、人間の思考力は限界に苦しむ。悩みに悩みぬき、現実世界に対して理想世界や神といった絶対座標系を導入することによって、みずからを相対化し、安定した足場、心の拠り所を得て安心するという方法を発明した。西洋思想はそういったものであるようだ。ただ、デカルト、パスカル、カント、サルトルなど、みんな悩んだようだ。
一方、そのぶよぶよを、あるがままに、前提として受け入れ、自分の性質(nature)つまり自然現象に抗うことをやめてしまう。そうすれば悩みは、迷いは無くなるだろう。確固たる足場は無いが、ぶよぶよの上で、みずからも揺らいでいればいいではないか。沈むまいと必死に泳げば体力を消耗するが、寝そべっていれば沈まない。ただ流されるだけだ。ゴータマ・シッダッタという人が得た気付き、悟りとは、どうやらそういうものであるらしい。それが禅という思想になって今日まで伝わっている。
心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな 最明寺入道時頼
via: 碌々(ろくろく)ブログ 心に心を許さない
ぶよぶよが労働を好きだというなら、仕方ない。そこから逃れるのは難しい。ぶよぶよには勝てない。頭は理性で、ぶよぶよは感情だ。頭でいくら考えたところで、ぶよぶよは従わない。
働けばよい。その単純な事実に気付く妨げになっているのが「なぜ働くのか」とか「天職とは何か」とかいった当世風の悩みであるようだ。働く理由など見つからなくても、働けばよい。天職など分からなくても、働けばよい。いや、働かざるを得ない。生きる糧を得るために。きっかけはそれで構わない。働こう。隠居するまで続いた仕事が天職だ。天職とは、探すものではなく、あとから気付くものだ。最近の若者はそういう素朴な考えとは程遠いようである。
悩むべきは「なぜ働くのか」とか「天職とは何か」とかいったことではない。「いかに生きるべきか」という問題だ。倫理とか哲学とか修身とか、いろんな言い方があるが、そういうことだ。労働ごときに悩むよりも、そちらのほうが余程重要ではないか。労働など生きることの一部にすぎない。労働に悩む暇があったら、とりあえず働いてみて、働きながら文学や哲学でも読んでいればよい。「いかに生きるべきか」を考えるなかで、あるいは自分に適した仕事といったものが見えてくるなら、それはとても幸せなことだ。
労働観なんて考えるものじゃない。人生観から自然と生まれるものだ。働こう。
とりあえずそこらへんの木の実を拾ったり、魚を釣ったり、小動物を狩ったりして飢えが満たされるのなら、誰が分業だの企業だの資本だのというめんどうな制度を作り出すであろう。
労働は「オーバーアチーブ」を志向する。
飢えが満たされても満たされないのである。
もっと働きたいのである。
そういう怪しげな趨向性を刻印された霊長類の一部が生産関係をエンドレスで巨大化複雑化するプロセスに身を投じたのである。
どうして「そんなこと」を始めたのか、私は知らない(たぶんマルクスも知らない)。
とにかく、そういうことになった。
via: 労働について (内田樹の研究室)
Homo sapience ホモ・サピエンス 考える存在
Homo socialis ホモ・ソシアリス 社会的存在
Homo loquens ホモ・ロケンス ことばを操る存在
Homo ridens ホモ・リデンス 笑う存在
Homo ludens ホモ・ルーデンス 遊び・芸
Homo faber ホモ・ファベル 働く存在
Homo amans ホモ・アーマンス 愛の存在
Homo religious ホモ・リリギオス 宗教心
via: 引用元PDF
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Wednesday, June 4th, 2008
読むたびに泣く。この文章も、書きながら泣いている。
いい人間になりたい。利口になり役にたつ人間になりたい。
賢くなりたい。
ますます賢く 武者小路実篤
僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。
人間もいくらか老人になったらしい。人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。
しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。
ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。
皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いゝ人間になりたい。
いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。
僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。
人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。
ますます利口になり、万事賢くなりたいと思っている。我々はますます利口になりたく思っている。
益々かしこく。
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