analog

4月 16, 2009

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記)

カテゴリー: education, philosophy, society — hidetox @ 7:40 pm

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』という記事では、わざわざ次のように書いたが、それでも残念ながら気を悪くした人がいるようだ。

俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。

まあ、Tumblrで引用された一部分だけを見て反応した人も多いのだろう。そういうものだ。それを批判するつもりもない。ちゃんと原典を読んでくれない人も多いのだろう。

それで感情的な批判をしている人もいて、中身のない罵倒を聞く耳など持たないが、筋の通った反論は傾聴するので、ぜひ筋の通った反論を聴きたいと思う。

それとは別に、主張を誤解している人もいるようだし、ここで補足しておく。

提起した問題は簡単なことだ。「これを喧伝する人は、自分が彼の立場になったとしても堪えられるのか?」という問いだ。

1)この答えがYESなら、恥じることなく喧伝すればいいだろう。(だから、この1に該当する人が腹を立てているとしたら、その理由が分からない。あなたを批判していないのだ。原典を読まずに誤解したケースだろうか)

2)この答えがNOなのに喧伝する人は、筋が通っていない。個人的には「自分に都合のいいように正義を曲げる人」と思える。とはいえ、それも言論の自由であり、尊重するのだが。「お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない」のだから。(わざわざこう書いたのだから、批判や反論はあっていいと思うが、感情的な罵倒をする人は何を考えているのだろうか、その心理状態が、じつに興味深い)

3)答えがNOだが、その引き受けるべき正義について無自覚な人もいるだろう。それを指摘したのが、例の記事では中心的なメッセージだった。これは「説得」だった。(「ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ」)

なお、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」を規制せよ、などとはまったく言っていない。言論の自由だ。私は、むしろ普通の人よりもプライバシーを尊重していないといえるだろう(リバタリアンだし)。だから、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」への批判はプライバシー権の観点ではない。

もちろんグーグル社に対して「ストリートビューでうちの庭の中が見えるのは困る」と抗議するのは自由だし、権利侵害がある場合には修正も必要だろう。しかしグーグルに修正を強制する権利はだれにもない。憲法に定める表現の自由は民主主義が成り立つための絶対条件であり、安易に例外を作ってはいけないのだ。他人の言論を制限しようとする「権利のインフレ」は表現を窒息させ、ウェブを不自由にするだけだ。

via: 「権利のインフレ」が表現を窒息させる

では、プライバシーとは関係ない議論としたら、どういう議論だったかというと、むしろ社会主義者が好むような道徳論、正義論に近い。「もし自分があの人の立場だったら」「立場の交換に堪えられるかどうか」という論法のだ。あくまで法規制などではなく、そういう個々人のモラルの範囲の議論をした。目的は批判ではなく説得だからだ。そういうことをする人を減らしたいと思ったのだ。キリストは「して欲しいことを他人にもしろ」と言ったし、孔子は「して欲しくないことは他人にもするな」と言った。そういうことだ。

以上、『赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』への補足とする。

4月 4, 2009

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ

カテゴリー: education, philosophy, society — hidetox @ 1:14 am

タンブラーを見ていたら、回ってきた記事がある。あえてリンクしない。この記事には写真も載っていた。

下半身丸出しで、シルバーシートに横たわってる、泥酔しているサラリーマンがいました。 靴や靴下、ジーパンなどを脱ぎ散らかし、股間をいじくっていました。 車内は一丸となって彼を取り囲い、写メールの嵐でした。

掲載されていた写真は、おそらく、これを書いた本人の撮影だろう。顔にボカシを入れていたが、そういう問題ではない。

その人の世間体を、人生を、破壊するに足る行為をしている自覚が無い(訂正:ことを)としたら、空恐ろしく感じる。

「絶対流出しないから」といって撮影したプライベート写真の流出で人生を破壊された人が俺の知るかぎり5人はこの世に存在する。実態はその何十倍か、何百倍か。。。

こういう写真撮る人間は、「自分がその立場だったら」と想像することができないんだろうか。

自分を安全圏において人を笑いものにする人は、自分がそういう立場になったときは誰からも守ってもらえないかもしれない、と割り切っているのだろうか。

人によって取る行動は違うかもしれない。車掌を呼ぶとか、露出部を隠してやるとか、起こしてやるとか、、、なんにしても、写真を撮るのは最低の行為だ。

俺のほうがおかしいのだろうか?

因果応報を自覚している人、自分がその立場になったときの覚悟ができて笑っている人なら、筋は通っている。それを否定はしない。ただ、俺が嫌悪感を頂くというだけに過ぎない。お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない。

ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ。

俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。

追記:
赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記)

3月 30, 2009

人類の理性は帰結主義を受け入れるか

カテゴリー: economics, education, history, law, liberty, philosophy, politics, science, society — hidetox @ 10:35 pm

地獄への道は善意で敷き詰められているという記事では、「善意」が社会にもたらす悪影響を紹介しました。

そのような問題を解決するために必要なのは、人類の理性です。人類は、帰結主義的な思考によって政治的意志決定をしていかなければなりませんが、それを阻むのが感情・本能です。つまり、理性によって、それらを押さえ込まなければ、人類は感情・本能に従って道を誤ります。

帰結主義(きけつしゅぎ、英語 consequentialism)とは、行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結(結果)を考慮に入れる立場を指す。功利主義は、帰結主義のひとつの立場である。

via: 帰結主義 – Wikipedia

帰結主義的に正しくても、感情的には受け入れがたいというのが「労働者保護の撤廃」だったりします。それにより失業率が低下し、国民の経済厚生が向上するはずなのに。

拒否パターン1:道徳・価値観・倫理的に、受け入れがたい。
拒否パターン2:違和感・恐怖から、受け入れがたい。

前者には、まだ尊重すべき論理があります。しかし、後者の理由による拒否もあるということに気付きました。これは、本当にくだらないことですが。

自転車に乗れない人に似ています。「スピードを出せば安定するんだよ」と言われても、スピードを出すのは怖いから、なかなか乗れるようにならない。本能はその言説・理論を「信じる」ことに抗うからです。それに打ち克つのは理性です。

「ある程度はスピードを出したほうが安全」というのは帰結主義的に正しい言説であるけれど、感情的(本能的)には受け入れがたいわけです。マトリックスのモーフィアスなら「速く動こうと思うな。速いと知れ (Don’t think you are, know you are)」と言うところ。

つまり、「本能的恐怖を克服しなければ自転車に乗れるようにはならない」のですが、それと「労働者を保護するよりも規制緩和によって失業率が低下する」という言説を信じられるかどうかというのは、同じ構図でしょう。

近視眼的な正義が、結果的には大きな社会的不正義を生んでいることに気づくべきだ。

via: 1段階論理の正義 – 池田信夫 blog

本能が司る感情的認知と理性は別物。本能的恐怖感を超えて、帰結主義的に正しい道を選ぶことが出来るかどうか。

この21世紀、我々人類の理性が試されている、といっても過言ではないでしょう。

部族社会で生きてきた日本は、いま否応なくそれを捨てることを迫られている。資本主義は人々の精神的な紐帯を断ち切り、格差を拡大する。ハイエクは、「資本の文明化作用」を肯定したマルクスと同じく、こうした変化を不可避で望ましいものとしたが、本当にそれは人間を幸せにするのだろうか。それ以外の道はないのだろうか。

via: ハイエクの政治思想 – 池田信夫 blog

3月 15, 2009

左翼諸君、私は人類みな平等、世界は一つと考える点で君らの同朋である

カテゴリー: philosophy, politics — hidetox @ 2:52 pm

もし、働かず、国家に与えられた生活保障で「飲んで打って買う」者がいるとしたら、そのような者まで救う必要はなく、国家は見捨てるべきである、というのが私の立場です。なぜなら、命の価値は絶対ではないのですから。

賢く勤勉な者から、愚かで怠慢な者への、所得移転といったものを、正当化する理由はない、と考えます。

そもそも、誰にも救ってもらえない人が、そのような馬鹿なことをするでしょうか? そういう馬鹿は、家族に甘えている。だったら、家族が食わせればいいのです。

国家が、馬鹿の命を、何が何でも救おうとする必要など、ありません。

人命の値段

こういう議論をすると、「目の前にかわいそうな人がいると、救わないといけないような罪悪感」を持つ人が、「何としても救うべきだ」という主張をしがちです。しかし、そういう人は、自分の視界に入らない惨劇について、知らないのか、知らないふりをしているのか、ともかく無自覚と言わざるを得ない。あなたの知らないところ、あなたに見えないところで、人はたくさん死んでいる。北朝鮮やアフリカで餓死している。それをどう考えるのか。

「自分の視界に入らない出来事は、起こっていないのと同じだから、見て見ぬふりをする」というのは、モラルのないポイ捨てと同じです。ポイ捨てした瞬間に自分の視界・意識からは消える。しかし、ゴミは消えない。いつまでも、物質として存在します。餓死の問題も同じ。あなたが意識しようと、しまいと、事実として存在している。見て見ぬふりは、ポイ捨てと同レベルです。

平等な生存権を主張する者よ、あなたはナショナリストですか? 人種差別主義者(racist)ですか? 日本人と最貧国で、人命の価値は平等ではないのでしょうか? もし平等だと言うのならば、最貧国の難民を受け入れる立法を訴えるべきでしょう。豊かな日本は、貧しい移民を受け入れる「自由な移民の国」になるべきです。

そのとき「福祉」や「社会保障」という名の欺瞞が暴かれます。

自由な移民の国で、手厚い社会保障は維持できないのです。米国を見ればわかるでしょう。最貧国の移民が押し寄せれば、福祉への「フリーライダー(ただ乗り)」のほうが多い、維持不可能な経済になるのです。

矛盾が見えてきました。「人類みな平等、世界は一つ」の理念のもとに、国家の垣根を壊し、自由な移民の国を作れば、平等主義は経済的に破綻することが明白です。これが左翼・リベラルの矛盾です。

福祉国家とは、何なのか? 福祉国家とは、差別国家の別名です。国内の福祉を訴える左翼が、同時に、国家の垣根を越えた平等を訴える。これは矛盾に気付いていないのか、もしくは欺瞞なのか。

もはや、あなたは矛盾に気付いてしまった。だから、本質に迫る思考を、もう一歩進めましょう。

「人間は生まれながらに平等」だから「富める者が貧しい者を救うべき」という左翼の論理は、根本的に矛盾している。だから、左翼は次のいずれかを認めるべきです。

  • 「人命の価値は生まれながらに平等ではなく、生まれた国によって差別される」→世界人類平等の理念を捨て、ナショナリストになる
  • 「自由な移民の国では、富める者が貧しい者を救う必要など無い」→経済的平等の理念を捨て、自由市場の信奉者になる

前者はナショナリズム福祉国家(全体主義、ポピュリズム)となり、後者はリバタリアン無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)となります。

ノーラン・チャート – Zopeジャンキー日記

左翼は上述の矛盾を抱えています。「経済的自由」と「個人的自由」は、片方だけ実現するとき、矛盾をはらむのです。両方を実現すれば、矛盾はない。

リバタリアニズムと右翼・保守・左翼・リベラルとの違い

左翼は、全体主義かリバタリアニズムの、いずれかに転向しなければならない。どちらを選びますか? 戦時の日本やナチスドイツのような全体主義国家を、ふたたび経験したいですか?

漫画「隷従への道」The Road to Serfdom

このように考えていくと、私には、最小国家、夜警国家、無政府資本主義という方向性の「リバタリアニズム」しか、人類がとるべき針路は無いと思えます。

自由のためのメカニズム

人類の歴史とは、支配者から自由を獲得してきた歴史でもあります。本格的な自由は、まだ始まったばかりです。我々の世代で止めてはならない。

左翼・リベラルの方は、ここで知った矛盾を、自分の問題として解決してください。あなたが、どのような解決に至るかは、分からない。私は、結論を押しつけない。ただ、説得するだけです。あなたの結論は、あなた自身の頭で、考えてください。

※関連リンク

* リバタリアニズムと右翼・保守・左翼・リベラルとの違い
* 左翼諸君、私は人類みな平等、世界は一つと考える点で君らの同朋である
* 自由のためのメカニズム
* 価値観を包摂するメタな価値観
* 自由で豊かな移民の国
* あなたも自由主義者だ
* お互いに不干渉/消極的自由論
* 政治、政府、報道、民衆の構図
* 政府と政治の区別はついてる?
* リバタリアニズムを知るためのリンク集(mojix.org)

人命の値段

カテゴリー: economics, philosophy, politics, society — hidetox @ 2:07 pm

福祉や社会保障の議論においては、「人命の価値を、お金で計る」といった発想が、必要でしょう。「人命の価値」から目を背けるのは偽善。人命には値札が付いています。

それを意識しないか、見えない振りをしているだけです。それは、偽善です。人命は地球より重い、などという戯言につきあっている暇はない。

我々は、赤信号を横断するとき、生命保険に加入するとき、バンジージャンプをするとき、目的地に急ぎ自動車でスピードを出すとき、無意識に、命を値踏みしています。

そもそも、あなたがホームレスを見て金を恵まず、見て見ぬふりしたことがあるなら、あなたは人命を値踏みしたのです。人命を値踏みしたことがない人など、いないでしょう。

ですから、「人命の価値」という議論から逃げることは、偽善であり、欺瞞なのです。

ここまでは実証的議論です。実際に、人が人命の価値を値踏みして行動しているということの傍証が、様々な研究から得られています。ですから、あなたの好みに合わないとしても、これは限りなく事実に近いと考えるべきでしょう。

そして、最後に規範的主張をします。これには賛否両論あるでしょうが。

もし、働かず、国家に与えられた生活保障で「飲んで打って買う」者がいるとしたら、そのような者まで救う必要はなく、国家は見捨てるべきである、というのが私の立場です。なぜなら、命の価値は絶対ではないのですから。

賢く勤勉な者から、愚かで怠慢な者への、所得移転といったものを、正当化する理由はない、と考えます。

そもそも、誰にも救ってもらえない人が、そのような馬鹿なことをするでしょうか? そういう馬鹿は、家族に甘えている。だったら、家族が食わせればいいのです。

国家が、馬鹿の命を、何が何でも救おうとする必要など、ありません。

→つづき:左翼諸君、私は人類みな平等、世界は一つと考える点で君らの同朋である

ベーシック・インカムとは、「何が生活に必要なのか」を、支給者ではなく受給者に考えさせる仕組みとも言える。例えば同じ5万円を、そのまま渡すのと、それで食料を買って渡すのとでは、資本主義社会では意味合いが異なるのだ。
ベーシック・インカムが始まれば、当然それで飲んで打って買うものも出るだろう。しかしそういった行動にオカンのごとく文句を付け、「正しい行動」を押し付けるのは、自由主義の主張に悖る。ベーシック・インカムの世界においては、それで身を持ち崩すことに対する言い訳は出来ないのだ。繰り返すが、ベーシック・インカムは、その意味において決して優しいだけのものではない。それをどう活かすかは、自分の頭で考えねばならないのだから。
404 Blog Not Found:ベーシック・インカムに賛成するのに十分なたった一つの理由

pp.xiv
この本の目的は、お金がない人を助ける具体的な方法を提示することではなく、お金がない人を助けることの経済学的な意味を考えて行く事である。
その中には、「あえて助けない」という選択肢もあり得る。その場合はどうなるのか、そして助ける場合にもどうしたらどうなるのかまでは著者も述べている。しかし「どうすべきか」の手前で筆者は止めている。たしかにそれは形而上学ならぬ経済上学とでもいうべきものだろう。見事な身のほどの弁え方だ。
404 Blog Not Found:経済学はじめの一冊 – 書評 – 経済学的思考のセンス

これも、表面的な「格差対策」が裏目に出ることの指摘だ。さらには、よりよい政策は何かという指摘もしている。とても参考になる。問題を本質的に捉えないと逆効果な「格差解消策」を導入してしまいそうだ。
経済学的思考のセンス

自由のためのメカニズム

カテゴリー: economics, philosophy, politics — hidetox @ 3:53 am

デイヴィッド・フリードマン著『自由のためのメカニズム』(原題 “The Machinery of Freedom: Guide to a Radical Capitalism”)

自然なことだが、社会主義者や保守主義者はいつでも次のように想定している。もし国が、人々が何かを望む「べき」かを決めるならば、それは自分の信ずるように決めるだろう、自分の価値観は「正しい」のだから、と。
第一部 財産の擁護 2 必要な脱線 p.21(※強調は引用者)

善意にしろ、悪意にしろ、自分の考えを他人に押しつけたがるのは、人間の性だ。権力を抑え込む努力なしに、個人の自由は守れない。権力はますます巨大化しており、個人の自由は危機に瀕しているーーー19世紀ヨーロッパで開花した自由主義や個人主義の潮流を歓迎しつつも、絶え間ない努力によって維持しなければ失われる価値として自由を擁護した。
『自由論』ジョン・スチュアート・ミル

我々の大部分は心の中では、善はただ一つであって、理想的には誰もがそれを追究すべきだと信じている。完全に中央によって計画された社会主義国家では、誰もが同一の善を追究する階層組織の一員である。もしその目的が、唯一の真の善ならば、その社会は資本主義社会が実現できない意味で完全だろう。資本主義社会では誰もが善についての自分自身の別々の見方に従っているからである。大部分の社会主義者は、社会主義の政府を支配するのは自分自身とそっくりの人々だと想像しているから、彼らはその政府が真の善−−−彼らが不完全に認めているもの−−−を追究するだろうと想像している。それは確かに、社会主義者以外のあらゆる種類の人々があらゆる種類の他の善を認めてその追究のために貴重な資源を浪費する、無秩序な世界よりも優れている。社会主義社会を夢見る人々は、別の人々の誰かが彼ら自身の目的を夢見る人に押しつけることに成功するかもしれない−−−その逆でなく−−−という可能性をめったに考えない。ジョージ・オーウェルは私の念頭に挙がる唯一の例外である。
第一部 財産の擁護 3 愛情だけでは足りない p.26(※強調は引用者)

飲んだくれの農場主を追い出して理想的な共和国を築こうとした動物たちであったが、指導者の豚が独裁者と化し、恐怖政治へ変貌していく過程を描く。スペイン内戦に自ら参加した体験を持つオーウェルが、人間を豚や馬などの動物に見立てることで20世紀前半に台頭した全体主義やスターリン主義への痛烈な批判を寓話的に描いた物語である。

人間の農場主が動物たちの利益を搾取していることに気づいた「荘園牧場」の動物たちが、偶発的に起こった革命で人間を追い出し、「豚」の指導の下で「動物主義」に基づく「動物農場」をつくりあげる。動物たちの仲間社会で安定を得た彼らであったが、不和や争いが絶えず、最後は理解できない混乱と恐怖に陥っていく。結果的に支配者が入れ替わっただけで、人間が支配していた時以上に抑圧的で過酷な農場となる。
動物農場 – Wikipedia

* 映画「動物農場」公式サイト

ハイエクは「自由とは、強制の無いこと」と定義した。
漫画「隷従への道」 The Road to Serfdom

私が知る限り、ひとつだけ、「ほかの価値観に対して寛容な価値観」があります。それは「自由」という価値観です。詳しく言えば「消極的自由(negative liberty)」です。消極的自由とは「強制のない状態」をいいます。
価値観を包摂するメタな価値観

ハイエクが本書で繰り返し強調するのは、個人に理解しえない力が社会を動かしているということだ。「派遣村」を支援する人々が善意でやっていることは疑いないが、彼らの求めるように派遣労働を禁止したらどうなるかは別の問題だ。逆に主観的には「強欲資本主義」であっても、その強いインセンティブを適切なルールによって制御すれば、生産性が上がって労働者の待遇を改善する場合もある。それが「見えざる手」の意味である。

しかし、このように主観的な意図と違う客観的な結果が生じることは、啓蒙主義以来の合理主義の伝統においては、あってはならない。そのもっとも影響力の強い思想が、マルクスの「必然の国」と「自由の国」という歴史観だ。彼によれば、人々の意図とは違う資本主義の「必然」が人々を支配するのは、人的関係が物的関係として「錯視」されるブルジョア社会の病であり、「自由人のアソシエーション」によってこれを転倒すれば、人は自分の運命の支配者になり、人類の「前史」は終わる。

この理想は美しいが、社会を動かす法則が透明でコントロール可能だという誤った前提にもとづいている。昔から科学者や法律家にマルクス主義者が多いのは、偶然ではない。彼らの世界では、意図と結果は1対1に対応しているからである。しかし社会主義の失敗が証明したように、社会という複雑なシステムを計画的にコントロールすることは、不可能で有害なのだ。

隷属への道 – 池田信夫 blog

※関連リンク

* リバタリアニズムと右翼・保守・左翼・リベラルとの違い
* 左翼諸君、私は人類みな平等、世界は一つと考える点で君らの同朋である
* 自由のためのメカニズム
* 価値観を包摂するメタな価値観
* 自由で豊かな移民の国
* あなたも自由主義者だ
* お互いに不干渉/消極的自由論
* 政治、政府、報道、民衆の構図
* 政府と政治の区別はついてる?
* リバタリアニズムを知るためのリンク集(mojix.org)

価値観を包摂するメタな価値観

カテゴリー: philosophy, politics — hidetox @ 3:34 am

多くの人が、規範的議論、つまり「べき論」ばかり語っている。
「格差は無くなるべき」とか「企業は社会に貢献すべき」とか「企業は雇用を維持すべき」とか・・・
どれもが規範的議論であり、単なる一面的な価値観に過ぎない。
そして「絶対に正しい価値観」などといったものはない。そのような思想は危険です。異なる価値観を持つ人間の排斥に繋がる。
議論と価値観−−−JSミル的言論論

私が知る限り、ひとつだけ、「ほかの価値観に対して寛容な価値観」があります。それは「自由」という価値観です。詳しく言えば「消極的自由(negative liberty)」です。消極的自由とは「強制のない状態」をいいます。

他者の強制的干渉が不在の状態を意味する。
消極的自由 – Wikipedia

消極的自由は、ほかの価値観を包摂する「メタな価値観」になりえる。

消極的自由な社会のなかで、やりたい人は、共産主義コミューンをやってもいいし、高い税にもとづく福祉社会をやってもいい。個々人の「自由」ですから。ただし、それに参加しない人から自由を奪ったりしなければ、という条件下で(例:税金による私有財産からの収奪は、個人の財産権の自由を侵害します)。

他人に強制したり、迷惑をかけたりしない限り、何をやっても自由。それが消極的自由な社会です。

そんな消極的自由も、一部の価値観に対しては、寛容ではない。それは、他人への強制を訴える価値観です。例えば「積極的自由」「パターナリズム」「社会主義」「共産主義」などです。

とはいえ、そんな消極的自由に反する価値観であっても、自分に及ばなければ、問題ない。勝手に(自由に)やって頂きたい。つまり、「そのような価値観を共有する者同士が、自由な意志に基づく契約によって、お互いを強制しあえばよい」のです。そのとき、他人を強制したい価値観の持ち主は、満足します。私も、自分になんら影響がないので、不満はありません。

例えば、自由な社会の中で、不自由な共同体を作ればいいのです。ヤマギシ会や、あたらしき村のように。私有財産を否定し、生産手段を共有し、平等な労働にもとづく、平等な分配。すばらしいじゃないですか。ぜひやってください。ただ、私に影響のない形で。

なぜ、みなさん、他人に対して何かを強制したがるのでしょうね?

お互いに「自由」に生きたいとは思いませんか?

あなたが他人に何かを強制したいなら、あなたも自由ではいられないのですよ。

人々が自由に個々人の価値観のもとに生きるためには、自由という価値観がメタな価値観として有効なのです。

これはコンピュータのOSのようなものです。「自由」というOSの上に、「自由より平等」というアプリケーションや、「お金は悪/物々交換」というアプリケーションをインストールしてもいい。メタということは、レイヤーが違うといってもいい。

日本国のOSレイヤーだけ「消極的自由」にして、あとは各自が好き勝手に「理想的な社会」を作って暮らしたいと思いませんか?

そうすれば、いまあるような対立は無くなるはずです。いまは、何か社会を変えようとするならば、自分と異なる価値観の人間も「巻き込んで」全員一律に同じ「社会」として変えないといけない。だから対立が避けられないのです。

最初から同じ価値観の人たちだけで集まって「社会」を結成していれば(=結社)、そういった対立は無いでしょう。個々の結社が、お互いに干渉しなければ、戦争も起こらない。

私は自由な社会のOSを実現したい。

※関連リンク

* リバタリアニズムと右翼・保守・左翼・リベラルとの違い
* 左翼諸君、私は人類みな平等、世界は一つと考える点で君らの同朋である
* 自由のためのメカニズム
* 価値観を包摂するメタな価値観
* 自由で豊かな移民の国
* あなたも自由主義者だ
* お互いに不干渉/消極的自由論
* 政治、政府、報道、民衆の構図
* 政府と政治の区別はついてる?
* リバタリアニズムを知るためのリンク集(mojix.org)

議論と価値観−−−JSミル的言論論

カテゴリー: education, literacy, philosophy — hidetox @ 2:50 am

経済・社会に関する素人議論においては、議論の基本的なリテラシーに欠けている人を多く見かけます。

実証的議論と規範的議論の区別をしましょう。実証的議論とは「世界はこう動いている」という事実の認識・科学的視点であり、規範的議論とは「〜べきである」という価値観です。

多くの人が、規範的議論、つまり「べき論」ばかり語っている。

「格差は無くなるべき」とか「企業は社会に貢献すべき」とか「企業は雇用を維持すべき」とか・・・

どれもが規範的議論であり、単なる一面的な価値観に過ぎない。

そして「絶対に正しい価値観」などといったものはない。そのような思想は危険です。異なる価値観を持つ人間の排斥に繋がる。

価値観を包摂するメタな価値観

不況でも「日本製品を買おう」などと言ってはならない

カテゴリー: economics, philosophy, politics — hidetox @ 1:44 am

この不況で「日本の製品を買おう!」といった声を聞くようになりました。

悪しき「保護主義」です。国など意識しない方が良い。

自由な貿易で密接に結びついた国同士は「のっぴきならない」関係にあるため、貿易全面停止となる戦争には及ばない。つまり、自由貿易は国際平和を可能にします。保護主義は、その逆です。ですから「バイ・ジャパニーズ(Buy Japanese=日本製を買おう)」といった保守主義に染まらない方が良いです。保護主義はお互いにエスカレートする。「しっぺ返し」の連鎖になります。

保護主義の「しっぺ返し」

今年2月、米国が保護主義に通じる危険な動きを見せました。G8サミットでは国際社会が自由貿易の維持に合意しました。ただ、具体的なアクションに至っていません。4月の英サミットでは具体的な決議を目指すようです。

* 米、景気対策に「バイアメリカン」 保護主義強める
* 保護主義、貿易戦争回避を 大統領「バイ・アメリカン」に反対表明
* 反保護主義で決意示す=金融サミット−英保健相

世界のリーダーには、20世紀の教訓をきちんと心得ている人がいるということです。

ちなみに、第二次世界大戦も、大恐慌、保守主義を経て始まったことを、忘れてはならないでしょう。日本が対米開戦に踏み切ったのも、石油の対日禁輸に一因があります。石油を断たれた日本経済にとっては、石油のための戦争という面がありました。

さらには、ニューディール政策の効果にたいする批判を怖れた米フランクリン・ルーズベルト政権が、「究極の公共事業」である戦争を始めるために、日本を開戦へ誘導したのかもしれない(陰謀論とも言われますが、傍証もあります)。

※詳しくはWikipedia「ABCD包囲網」「ハル・ノート」「真珠湾攻撃」「ニューディール政策」などのページを。これらの点を、どのような線(コンテキスト/文脈)でつなぐかは、あなた次第。

覚えておいてください。保護主義は人類の敵です。異国の人と敵対すべきではない。協調しましょう。

私は、自由貿易を妨げる動きを、警戒します。

不況で一万人は死ぬかもしれない。だからどうした。戦争になれば百万人が死ぬのです。自由な経済で、どうやっても百万人は死にません。我々人類は、戦争するより、保護主義の誘惑に負けず、自由貿易の火を灯し続けるべきです。

… Free trade also discourages war and makes friends instead. As Bastiat said, “When goods don’t cross borders, soldiers will.” …

訳: 自由貿易は戦争をする気をなくさせ、 かわりに友達を作る気にさせる。 Frederic Bastiat が言ったように、 「商品が国境を越えないとき、兵士が国境を越える」のだ。
選択の自由と見えざる手――市場の道徳性と効率性(ミルトン・フリードマン)

おまけ:あんそく やる夫が儲けるようです 【最終話】
これの204(資本主義と自由貿易は世界平和の可能性)

やる夫で学ぶ経済の仕組み

3月 14, 2009

説得

カテゴリー: philosophy — hidetox @ 4:35 pm

異なる意見の者を説得するなら、論破してはならない。
目的は「破る」ことではなく、「仲間にする」ことだ。
相手の考えを馬鹿にして、怒らせるのは、最悪だ。

こういうのは悪い例:農薬が怖いとか

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