Archive for the ‘literature’ Category
Friday, August 1st, 2008
本編(1)
正常な人間とはなんだろう? ひどいこと、下劣なことを一度もしたことがない人間だろうか? その通り。しかし、下劣なことを一度も考えたことがないなんて人間がいるだろうか? いや、ひょっとしたら考えたことさえなくても、十年か三〇年か前にその人間のうちにひそむ何かが勝手に考え、湧き出てきたことくらい、あるんじゃないかな。人間本人のほうはそれから身を守り、忘れてしまい、自分がそれを実行に移さないとわかっているので、それをもう恐れることもないーーーそんなことが。さて、今度はこんなことを想像してみて欲しい。あるとき突然、他の人たちの真っただ中で、昼日中にそれが実体化して肉を備えた姿となって現れ、きみにまとわりつき、それを叩き潰そうとしてもどうにも叩き潰せないーーーそうなったら、どうだろう? それはどんなものだ? pp.117-118
本編(2)
もしも彼女がだね・・・・・・いや、もしもこれが醜悪な化け物だったとしたら、どうだろう。その化け物があなたのためにはなんでもするわ、なんて言って、つきまとってきたら? きみは一瞬もためらわないで、その化け物を抹殺しようとするんじゃないのかね? pp.260
本編(3)
確かに、そういうことかもしれない。その場合、やつはまったく・・・・・・ぼくたちのことを踏みつぶし、粉砕しようなんてつもりは全然なかったということになる。あり得ることだ。ただ何という意図もなしに・・・・・・ pp.326
レム本人(1)
宇宙がたんに「銀河系の規模に拡大された地球」だと思うのは間違っている。宇宙は、私たちがいまだ知らない新奇な性質を備えているのではないだろうか。地球人と地球外生物とのあいだに相互理解が成り立つと考えるのは、似ているところがあると想定しているからだが、もし似たところがなかったらどうなるだろうか?
レム本人(2)
つまり、私が重要だと考えていたのは、ある具体的な文明を描いてみせるというより、むしろ「未知なるもの」をある種の物質的な現象として示すということだったのである。
レム本人(3)
私の信ずるところでは、そして私の知る限りでは、『ソラリス』という本は決して宇宙空間におけるエロスの問題を扱ったものではなかったはずだ。
レム本人(4)
SFはほとんどいつも、こんなことを前提としてきた。つまり、人間が出会う「他者」がかりに何らかのゲームをするとしても、人間は遅かれ早かれそのゲームのルールを理解するだろう、というのである。そして、そのルールはたいていの場合、戦争の規則だった。それに対して私はソラリスの海が体現している他者としての存在を擬人化して理解するような道をすべて塞ぎ、コンタクトが人間と人間との間のような形で実現しないようにしたかったのだ。
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Thursday, July 3rd, 2008
2週間で小説を書く! (幻冬舎新書) 清水 良典 (著)
清水氏は多くの作家志望者を指導した経験にもとづき、陥りがちな落とし穴を教えてくれる。
谷崎潤一郎の名作『細雪』が超豪華な配役と絢爛豪華な衣装で映画化されたとき、試写を見た谷崎夫人(『細雪』の主要人物、幸子のモデルである)の洩らした感想は、わたしたちの頃は畳のへりを踏まなかったですね、という一言だけだったという。
細部は怖い。
「文章の細部の怖さ」よりも、谷崎夫人の怖さが伝わってくる、、、というのは冗談だが、じつに「細部」は怖い。後述の『アフターダーク』(村上春樹)ではITエンジニアが登場する。私は元ITエンジニアとして、ほんのわずかな違和感でも見逃さなかっただろう。しかし、何も違和感が無かった。専門的なことを書いて「ボロ」が出ないのはプロの仕事だ。相当な取材の裏づけがあるのだろう。
小説というものはふだん書くのと同じ文章で書かれているのだが、架空の「目」から書くという、ふだんの言葉の使い方とはまったく異なる奇妙な語り方をしているわけである。その「目」の設定をとりあえず決めないことには、一行も書き出せないものなのだ。
なるほど、言われてみれば、たしかにそうだ。ふだんの文章の書き方ではない。
「目」といえば村上春樹の『アフターダーク』が面白い。次のように評する人がいる。
ここで大切なのは、視点が三人称全知であることではなく、カメラなのだというところにあるのだと思う。上で「カメラのような全知的な視点」と書きましたが、むしろここで強調されるのは「カメラ的な視点の限界」と言うべきものです。
via: 村上春樹『アフターダーク』
「目」の描写が独特で引き込まれる。一方、会話の部分では会話に没頭する。客観的な視点の部分と、会話の部分が交互にあらわれ、構成にリズムが生まれている。適度な緊張感を保って最後まで読むことができる。
■描写
小説を書くのに最も大切な書く力とは、具体的な人物や行動や風景を、目の前にあるかのように再現する力、すなわち<描写>の力である。
「孤独の極致」を言葉にしてしまうのは最悪だし、「気持ち」を直接説明する表現はたいてい小説には必要ない。こういう文章を書くことなく、人物の孤独な気持ちが読み取れるように場面や言動を書くのが小説である。
なるほど。これは知らないと陥り易そうだ。気持ちを「記述」してしまいそうだ。自分では「より正確に読者に伝えたい」と思って。つまり、それが「描写」だと誤解して。
小説には非日常的な事態や出来事が起こる。しかしそのためにはその手前の「日常」がしっかりと描けていなければならない。
言われて気づく。たしかに、いきなり「事件」から始まる小説は、感情移入する前に話が先に進んでいってしまう。読者を置き去りにする感じ。
■小説の魅力
ものの見方と考え方、それを書く文章の語り口が独自であること。つまり、文体が個性的であることだ。それが小説の魅力の第一だと私は思う。
同感だ。世界観×文体。
■完成
「完成」とは、幻想である。
完成させる、のではなく、終わらせると考えるほうが実際的である。
たしかにそうだ。これは小説に限らない。ほとんどの創造的な仕事について言えることだろう。私の体験では、ビジネス上の資料。ちなみに、「リリース(release)」という言葉には「手放す」という意味がある。
クリエーターであると同時に批評家であること。それはどんな作家にも、音楽家にも、とにかく何かを表現しようという人間には不可欠な要素だ。
自分の創作物を、客観的に批評する能力。これが最も難しく、プロとアマを分けるのだろう。
See also: Writing School: 一億三千万人のための小説教室
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Sunday, June 8th, 2008
感心することを怠りなく学ぶ事。感心するにも大変複雑な才能を要する。感心することを知らない批評家は、しょっ中無けなしの財布をはたいている様なものだ。
(小林秀雄「断想」)
小説をつかまえるために、暗闇の中で目を見開き、沈黙の中で耳をすます。
via: analog | Writing School: 一億三千万人のための小説教室
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Sunday, June 8th, 2008
『考えるヒント』 小林 秀雄著
福沢諭吉
太平の世は、考える必要を奪う。過渡期ではない時代などない。平時にあって有事を忘れるべからず。明治の激動に生きた思想家は要求する。考えろ、と。
過渡期とは言葉ではない。(略)自らが、めいめいの工夫によって処すべき困難な実相である。処すべき実相を答案の容易ある問題にすり代えてはならぬ。過渡期は外に在る論議の対象ではない。「一身にしてニ生を経る」君自身の内的な経験そのものである。これが福沢の説いた「私立」の本義であり、彼の啓蒙が目指したものだ。これは難しい事であった。今日ではもう易しい事になったと誰に言えよう。過渡期でない歴史はない。
「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は「私立」の内を腐らせる。福沢は、このことに気附いていた日本最初の思想家である。
言葉
言葉は、考える道具である。ただ、言葉が大手を振って偉そうな顔をし過ぎている。言葉は方便に過ぎない。ある言葉から想起されるものは、人によって微妙に異なる。言葉による意思疎通の限界がここにある。言葉が万能であるかのような時代、意思疎通や共感とは言葉だけでないことを忘れずにいたい。阿吽の呼吸で通じ合う老夫婦に学びたい。
姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。
ネヴァ河
作家は、作中人物を、心の中で生きてみるものだ。作中人物に命を与えるものは、観察力ではない。愛情あるいは情緒と呼んでいい精神の力である。これは、現代の小説家たちには、非常に困難な道になってしまっているが、この作者が乗越えているのは、その困難なのである。
自分のことを書きなさい。ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて。
引用:analog | Writing School: 一億三千万人のための小説教室
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Sunday, June 8th, 2008
『一億三千万人のための小説教室』 高橋 源一郎著
■何を書くか
自分にしか書けない小説とは何か。それは、自分にしか見えない世界の見え方である。自分にしか見えない世界の見え方とは、自分の中に見つけるしかない。自分がよく知っていることを書くしかない。つまり、まずは自分の中に小説のモチーフを見つけること。これが小説を書く前の準備である。
小説は書くものじゃない。つかまえるものだ。
■感性を養う
いろいろな文章を読む。肯定的に読む。目を背けたくなるようなものほど、自分に足りないもの。これまで読んだことがないような文章を、どんどん読んでみる。言葉や、作家の感性に対する、感覚を鋭くする。自分にしか見えないものを見つけるためには、人が面白さを見出さないところに、面白さを見出せる、感性が必要だから。飛んでくるボールに対して、自然に体が動くようになるまで、ボールを追いかける。
小説をつかまえるために、暗闇の中で目を見開き、沈黙の中で耳をすます。
■どう書くか
自分が好きな作家を、文章を見つける。それを真似る。何度も書き写す。最初は、独創的に書こうなどと、思ってはならない。ただ、真似ることだけを考える。そのうち、その作家が書いたかのような文章を、自然に書けるようになったら、それはたしかに、自分の文体になったといえる。そうならなければ、それはおそらく、そのときの自分が求めているものではなかったのだろう。また、真似る対象は一つとは限らない。そうしているうちに、自分の独創的な文体というものが、出来上がっている。
小説を、あかんぼうがははおやのしゃべることばをまねするように、まねる。
■最後に
自分のことを書きなさい。ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて。
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