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5月 21, 2009

嫌煙家にも二種類いる

カテゴリー: economics, education, liberty, society — hidetox @ 12:39 am

嫌煙家には、個人的に煙草が嫌いな人と、「煙草は悪だ」と盲信して社会正義を代弁するかのごとき人がいる。

私は前者。物理的に煙が嫌いだ。拒否反応が出る。煙草の煙が目に染みて、涙が止まらなくなるのだ。だから、私は個人的にその場の喫煙者に禁煙をお願いする。あくまで煙を避けるためだ。

後者の人間は「喫煙は悪」だと信じているので、対話をする気がない。喫煙者に対して上から正義を説く。また、TPOを問わず「喫煙は悪」であり、妥協の余地がない。

こういう人は手に負えない。自分が100%正しいと信じているから、対話の可能性が断たれている。

正義どころか公害だ。外部不経済。煙草の煙よりも深刻な公害だね。

他人の権利や社会正義を代弁する人は思考停止に陥りやすい。

最大の特徴は「自分が当事者ではないことに出しゃばっていく」ということだ。

その行動様式は、全体主義国家で秘密警察に告げ口する小市民に、似て無くもない。「禁煙ファシズム」とは言い得て妙だ。

- 禁煙ファシズムを加速させるマスコミとJRは人殺し!?(前編) – 日刊サイゾー
- 「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン)

偉そうなことを書いてしまった。許してちょんまげ。
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5月 17, 2009

言論の自由がない霞ヶ関

カテゴリー: Japan, bureaucracy, liberty, politics — hidetox @ 1:02 am

高橋洋一著『さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白』には、官僚は無謬主義であること、上司・先輩のやったことを批判するなどもってのほかであることなど、官僚の体質が書いてありました。

そのような体質では、外に向かって役所の批判をするなどタブーでしょう。高橋氏は、それをやりました。

その高橋氏は「窃盗犯」となりました。報道によると、本人が罪を認めたそうで、即座に勤務先の東洋大から懲戒免職されました。それにより「社会的制裁を受けた」との理由で、起訴猶予処分となりました。

なにか不自然な気がします。陰謀論を語るのは慎重にしなければなりませんが、あまりにも「それっぽい」。そして、「それっぽすぎる」こと自体が不自然です。本当の陰謀なら、こんな「分かりやすい」筋書きにしないでしょう。

【起訴猶予と引き換えに口止め!?】高橋洋一元教授、起訴猶予に – ぽぽんぷぐにゃん

本人がいまだに出てこないのは、やはり口止めされてるんじゃないですかね。

東洋大の本人の弁解を待たずしての懲戒免職も疑問ですが、起訴猶予と引き換えに、懲戒免職と口止めを検察(官僚側)に約束させられているのではないでしょうかね。

マスコミは高橋本人への追跡取材をしてほしいものです。消される可能性さえ感じずにはいられません。

100%同意するわけではないですが、その可能性がゼロでもないと思います。

ただ、もし陰謀だとすると、こんなに分かりやすい筋書きもない。もし陰謀があるとすれば、もっと巧妙に、秘密裏に圧力をかけ、表舞台から葬り去る方法を選ぶでしょう。まさにいま私が抱いているような疑いを国民に持たせるのは不利だからです。

したがって、もし陰謀があるとしたら、むしろ、分かりやすく「公権力」の恐ろしさを見せつけている、つまり高橋氏を「見せしめ」に、「第二、第三の高橋氏」を封じる意図がある、と考えるほうが自然です。

繰り返しになりますが、陰謀かどうかは分かりません。軽はずみに陰謀を唱えるのは、官僚に対して不当に汚名を着せる行為であり、慎まなければならないと思います。あくまでも「陰謀があるかどうかは分からない」というスタンスで、ただ、あまりにも「それっぽい筋書き」に見えてしまう点を指摘しました。

高橋氏の著書を読んだり、関心があったりすれば、同様の疑念を持つようになる人は少なくないでしょう。それを「あくまで可能性の一つ」として提示しました。私は本論で「どちらかというと陰謀だろう」とも言ってませんので、誤解の無いようお願いします。

さて、本題に戻りましょう。次に気になるのは木村盛世氏です。『厚生労働省崩壊-「天然痘テロ」に日本が襲われる日』を書いた現役厚生官僚です。

新型インフルエンザ、水際封じ込めはナンセンス|ニュース|ロハス・メディカル:

 厚生労働省が言っているのは、検疫による水際での封じ込め、ワクチン、タミフルの3点セットですよね。でも、こんなの新型インフルエンザに対してはナンセンスです。

(略)

――なぜそんなものを前面に押し出しているんでしょう。

専門家がいないからでしょうね。WHOもフェーズ3から4に上げる時、封じ込めに努力せよなんて言ってません。それなのに封じ込めできると言っているのは、国民を欺く行為です。もし彼ら自身が本気で可能だと思っているのだとしたらあまりに宗教的だし、頭に何か新種のウイルス感染でも起こしているのでないかと心配になりますよ。

めちゃくちゃタブーの官僚批判をしてますね。すごい勇気です。(といっても、中傷表現は擁護しません。J・S・ミルは「少数派は努めて誠実に、穏健に、議論しなければならない」と言いました)

――本を出して、何か本省から言ってきましたか?

 本当にフランクに言ってくればいいんですが、何も正面切っては言ってきません。それをせずにイジメのようなことばかり。今回もアマゾンの書評に一般読者を装って悪口を書き込んでいる程度でしょう。彼らは一人ひとりは非常に臆病な羊。でも群れると狼になって意地悪をするんです。

 私は別に何も悪いことをしていないので、辞めろと言われる理由はないんだけれど、いつ辞めてもいい覚悟ではいますよ。一方で、もし責任ある仕事をしろと言われるならば、それも運命と思って懸命にやるつもりです。

――腹をくくっている分、上の人たちからすると一番始末に困りますね。

困るでしょうね。腹をくくってないと動いていかない、ビクビクしていたら動いていかないですよ。

彼女の主張の正しさ以前に、このように主張したこと自体に賛辞を送ります。ほかの官僚も反論があるなら公然と反論すればいい。すでに省内から公共の場に言論が移っている(出版によって)のだから、その反論は議論を深めるために有意義でしょう。議論において反論が無いと言うことは賛成と見なさざるを得ないわけですし。

よって、彼女の言論活動を応援したいと思いますが、今後の活動(官僚としても、それ以外も)が何らかの圧力で妨げられないかと心配です。べつに「えん罪を着せる」といった陰謀があるとは言いませんが、本人もインタビュー中で述べているように、すでに「飛ばされ」ているようです。これは今後ひどくかもしれません。

そうなった官僚にも、政治任用(ポリティカル・アポインティ)によって首相官邸の直属で大きな仕事をする機会があるようです。高橋洋一氏も竹中平蔵氏と旧知の仲であったことが安倍内閣での政治任用につながった、と本人が書いています。ただし、政権が短命ならそれで終わり、という不確実なポジションです。

木村氏の今後に注目します(彼女の論敵が現れるのか、主張が正しさはどの程度か、など)。

それだけでなく、公権力に対する監視の目を持ち続けたいと思います。国民の監視の目が増えれば、日本の「官僚支配」は弱まるはずです。もし無関心であった方は、これを機会に政治に関心を持っていただければと思います。

5月 13, 2009

リバタリアンな婚姻制度

カテゴリー: law, liberty, society — hidetox @ 12:35 am

法とは自然に存在するものではない。人々が国家の権力(暴力)を制限し、自由を守るためのもの。人々がお互いに生きやすい社会を作るためのもの。したがって、我々はつねに「よりよい法」を「選ぶことができる」のだ。

あらゆるものを「当たり前」と受け入れず、ちゃんと考えてみよう。「当たり前」を疑い始めたとき、哲学が始まる。

リバタリアンな法哲学者森村進氏の婚姻制度に関する議論を紹介しよう。

・・・現代の大部分の国家は一夫一婦制だけを法的な婚姻の形態として認めている。それは同性間の婚姻も、一妻多夫も、一夫多妻も、群婚も、法的には認めようとしない。これは多様なライフスタイルに対して明確に偏頗な態度を取っており、リバタリアン的な中立性とは相容れない。この不平等を是正するためには、一部の国々で部分的に実現しているように、これらの少数派の婚姻の形態も法的に認めるという対策も考えられる。しかしそもそも婚姻という制度を法律に定めなければならない理由は明らかではない。実際には多くの法制度は色々な点で既婚者を独身者よりも優遇しているが、この優遇も法の下の中立性と衝突するから、もっと根本的に、婚姻という制度を法的には廃止すべきである。

婚姻という法的制度がないところでは、離婚もない。あるのは、共同の世帯を持つこととそれを解消することである。その共同生活者の権利義務関係は契約で定めることもできる。現在の婚姻制度では配偶者間の法的関係は強制法規によって大部分定められている。人は特定の相手とその関係にはいるかはいらないかの選択肢しかない。これに対して今述べた制度では、契約自由の原則から、共同生活者の法的関係は当事者が自由に決められる。

自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

補足:

「契約自由の原則から、共同生活者の法的関係は当事者が自由に決められる」
自由を手にした上で、なお「ふつうの結婚契約」を結びたい人もいるだろう。心配には及ばない。すぐに「ふつうの結婚契約」という契約書のひな形が出てくる。いま企業が使っているNDA(秘密保持契約書)だって、ほとんどひな形のまま使っているのだ。

当事者間で自由な契約内容を決められる、というのが契約自由の原則だ。だから、いまの日本国内法が定める婚姻契約を再現する契約書を作れば、何の問題もない。また、そのような契約書はニーズが多いだろうから、すぐに1通数百円程度のひな形として販売されるだろう。

そのうえで、個別のニーズのために契約内容を変更する自由が得られる。たとえば婚前契約で財産権を定める、といった事例は今でもある。遺産相続でもめるのも、よくある話だ。離婚に伴う係争も多い。婚姻にまつわるトラブルは多いと言わざるを得ない。

そもそも普通の善良な人々にとって契約とは「トラブルを事前に防止するためのもの」なのだ。契約当事者間でお互いのニーズを擦り合わせて合意しておくのは当然じゃないか。

ところが、契約内容に制限を課す強制法規は、人々から契約の自由を奪っているのだ。

契約自由の原則を奪う強制法規は、婚姻にまつわるトラブルを増やしているかもしれない。

婚姻契約が政府による強制法規であるべき正当な理由など無いのだ。

5月 3, 2009

政府という「独占企業」

カテゴリー: bureaucracy, economics, liberty, politics, society — hidetox @ 2:09 am

これらは、資本主義がそれなりにうまく機能しているかぎり、経済のルールで安全が担保される可能性がありますが(安全でない食物は売れないでしょうし、自動車の安全性は、機能面ではメーカーが、操縦面では不法行為による損害賠償システムが存在することにより担保され得ると考えます)、政治については、上記の例において資本主義が果たしているような潤滑油の機能を担うものがありません。

via: 政治家を信じよう(ただし条件と期限をつけて) – 輪(わ) -Come and See the Blood in the Street.

政府という存在の最大の問題は、そこに「代替(alternative)」のないことです。

市場は公平です。レストランがマズかったら、そこに二度と行かなければいい。

誰もあなたにマズいレストランに行くことを強制できません。

私たちには「選択の自由」があります。

しかし、政府の提供する商品やサービスは、別です。

社会保険や年金が非効率だからといって、強制加入ですから、あきらめるしかありません。

政府が提供する商品・サービスを「要らないから、払わない」ということはできません。

税金という形で強制的に「代価」を徴収されてしまうのです。

政府は人々に取引を強制します。

政府は独占的な存在です。

政府は人々から「選択の自由」を取り上げます。

「自由」とは「強制のないこと」である、とハイエクは定義しました。

政府は人々から「自由」を奪う存在なのです。

そんな政府を弱体化する方法は?

政治です。

政府と政治を分けて考えましょう。

政府と政治が癒着している(政官癒着)としたら、それは有権者のせいです。

有権者が「小さな政府」を望めば、政官の癒着をなくすことができる。

もちろん、有権者には「自ら立候補する」という手段もあります。

人ごとではない。

私たち、一人ひとりが、行動を変えるしかない。

政治参加意識を高め、発言し、投票する。

あるいは、立候補したり、政治献金する。

自分の希望を叶えてくれる政治家を選ぶ。

必要なら、育て、支援する。

そういう一人ひとりの行動が必要です。

一人ひとりの行動が変わらなければ、

政官癒着は無くならないし、

政府という「独占企業」は巨大なままです。

私たちは政治家を信じることが必要です。

そのためには、信じるべき政治家を見つけなければなりません。

いなければ、育てるか、自ら立候補するか。

4月 19, 2009

政治資金規正法

カテゴリー: bureaucracy, law, liberty, politics, society — hidetox @ 9:41 pm

民主党が政治資金問題第三者委員会を立ち上げましたが、早速そのヒヤリングの中身を観ることができるようになっています。

内容は、細かい論点について、総務省の担当者と委員が議論しているものですが、委員からのつっこみに対して、担当者はタジタジになっているように見受けられました。特に、櫻井敬子委員の、「構成要件があいまいで、予測可能性に欠ける部分があるのではないか」との趣旨の指摘には、完全に答えに窮しているかのようでした。

これでは、結局のところ、政治資金規正法は、まともに解釈・運用するつもりで作成・改正されたのではないのかもしれないのではないか、つまりはザル法として、ただそこに在ればよいのであり、どの政治家もまともに守る気など最初からサラサラなかったのではないか、との疑問を抱かれても仕方ないと言えるでしょう。

via: 民主党の政治資金問題第三者委員会について – 輪(わ) -Come and See the Blood in the Street.

「予測可能性」は本当に大事です。

一言付け加えると、守れないルールがあると、そもそも政治献金を受けること自体が恐ろしくなるはずです。しかし、そうならずに「どの政治家もまともに守る気など最初からサラサラなかった」ということは、官僚・検察に太いパイプを持つことによって身を守ることができる政治家の体質も示唆する。つまり政官癒着ということです。

政治資金規正法については賛否両論ありますが、私は「個人献金も企業献金も完全自由化したうえで、企業の会計基準のように記録のルールを決め、開示を義務づけること」が望ましいと考えます。

穏健な立場としては「当局の開示請求にもとづき」となるでしょう。しかし、私はインターネット上での公開を義務づけても良いと思う。(企業決算の官報のように)

いまは政治献金そのものが悪であるかのような価値観にもとづく法制度だと思います。それが健全な民主主義の発想とは思えない。

金を集めることは悪ではない。そのすべての流れが明らかならば。

以下の指摘はもっともだと思います。

政治とカネの本当の話(1) (田中良紹の「国会探検」)

 官僚が国民を支配する要諦は「守る事が難しい法律」を作る事である。車の法定速度を守ったら渋滞が起きる。誰も守っていないのが普通である。警察は普通は見逃している。それで国民生活に支障はない。しかし時々警察は捕まえる。運転手は「運が悪かった」と思う。この時々警察の都合で捕まえるところに官僚の「裁量」が働く。官僚は法律違反を常に見逃しながら、都合で取り締まる。警察に歯向かう人間は取り締まられ、警察にゴマをする人間は見逃される可能性がある。

 スピード違反だけの話ではない。公職選挙法も「厳格に守った人間は必ず落選する」と言われるほど「守る事が難しい法律」である。「お目こぼし」と「摘発」は警察の思いのままだ。税金も「何が脱税」で「何が節税」かの区別は難しい。政治資金規正法も「守るのが難しい」法律である。みんなで同じ事をやっていても、取り締まる方が目をつけた相手は「摘発」され、同じ事をやっているその他は「お目こぼし」になる。これで政治家はみな官僚に逆らえなくなる。

 政治資金規正法を厳しくすると、最も喜ぶのは官僚である。これで政治が官僚より優位に立つのを抑える事が出来る。政治が力を持てばいつでも「摘発」して見せ、メディアに「政治批判」をさせ、国民を「政治不信」に堕ち入るようにする。「政治不信」こそ官僚にとって最も都合が良い。これで政治家を官僚の奴隷にする事が出来る。その事に協力してきたのがかつての野党とメディアである。

 「政治は汚い」と国民に思わせるように官僚は仕組んできた、それに応えてメディアは「政治批判」をする事が「権力批判」だとばかりに、口を極めて政治を罵倒し、官僚と言う「真の権力」にゴマをすってきた。国民はこの国の権力の本当の姿を見せられないまま、政治に絶望してきた。

一般論としても、裁量の余地が少ない立法ほど優れているのではないでしょうか。当局の裁量の余地が入らない法規制を望みます。政治資金規正法は、その点でダメなザル法なのです。

なお一点付け加えておきます。

私はリバタリアンです。そもそも国家は最小であるべきだと考えています。そこに誘導すべき利益などない。大した規模の公共事業が存在しないし、利権を生むような規制もない。そういう自由な社会を理想と考えています。その前提では、企業献金によって「誘導されるべき利益」など無いのだから、企業献金を禁止する必要などないのです。

過渡的な問題としては難しい面がありますけれどね。私も現在の国家規模(財政規模)では、たしかに市場の公正さを損ねる恐れがあるとは思いますよ。

ただ、企業献金を禁止すべきだという人々には、要するに「大きな政府」が良いと考えている人も多いようですね。

その点では、考え方が根本的に違うのでしょう。

国家は人々を守るのではなく、国家こそ人々にとって最も有害な存在だと考えますから。

国家から利権を奪ったとき、政治家には利権が少なくなる。つまり政治家が汚い仕事だと思うべき理由も小さくなる。そこで人々が政治家に活動資金を寄付する。むしろ政治家に税金で資金を提供する必要はない。

ではなぜ企業が献金するのか、という人がいる。企業は利益が目的なのだから云々、という議論。それはまったく意味のない議論だ。ならば利益の1%を慈善事業に投じている企業の存在をどう考えるのか。もちろんブランディングなどの目的があるだろう。あれを禁じるべきで無いならば、利益の1%を政治家に寄付することを禁じる理由があるのだろうか?

4月 15, 2009

書評:自由のためのメカニズム

カテゴリー: book, critique, economics, law, liberty, society — hidetox @ 10:06 pm

以前紹介したデイヴィッド・フリードマン著『自由のためのメカニズム』は非常に読みにくい本だ。

難解というのではなく、文章として読みづらい。

原因が翻訳にあるのか、原文にあるのか、定かではないが・・・

リバタリアニズムのなかでも過激なアナルコ・キャピタリスト(無政府資本主義論者)の主張を知りたいという向きには第1部〜第2部だけ読むことをお勧めする。第3部以降は、日本語としておかしな文が多すぎて、読むに耐えない。

ただ、興味があれば第3部や第4部にも読むに値する箇所はある。どちらかというと第2版で追加された第4部のほうが興味深いので、おすすめする。おもに「法と経済学」に関する論考だけは読んでおく価値があると思う。

3月 30, 2009

人類の理性は帰結主義を受け入れるか

カテゴリー: economics, education, history, law, liberty, philosophy, politics, science, society — hidetox @ 10:35 pm

地獄への道は善意で敷き詰められているという記事では、「善意」が社会にもたらす悪影響を紹介しました。

そのような問題を解決するために必要なのは、人類の理性です。人類は、帰結主義的な思考によって政治的意志決定をしていかなければなりませんが、それを阻むのが感情・本能です。つまり、理性によって、それらを押さえ込まなければ、人類は感情・本能に従って道を誤ります。

帰結主義(きけつしゅぎ、英語 consequentialism)とは、行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結(結果)を考慮に入れる立場を指す。功利主義は、帰結主義のひとつの立場である。

via: 帰結主義 – Wikipedia

帰結主義的に正しくても、感情的には受け入れがたいというのが「労働者保護の撤廃」だったりします。それにより失業率が低下し、国民の経済厚生が向上するはずなのに。

拒否パターン1:道徳・価値観・倫理的に、受け入れがたい。
拒否パターン2:違和感・恐怖から、受け入れがたい。

前者には、まだ尊重すべき論理があります。しかし、後者の理由による拒否もあるということに気付きました。これは、本当にくだらないことですが。

自転車に乗れない人に似ています。「スピードを出せば安定するんだよ」と言われても、スピードを出すのは怖いから、なかなか乗れるようにならない。本能はその言説・理論を「信じる」ことに抗うからです。それに打ち克つのは理性です。

「ある程度はスピードを出したほうが安全」というのは帰結主義的に正しい言説であるけれど、感情的(本能的)には受け入れがたいわけです。マトリックスのモーフィアスなら「速く動こうと思うな。速いと知れ (Don’t think you are, know you are)」と言うところ。

つまり、「本能的恐怖を克服しなければ自転車に乗れるようにはならない」のですが、それと「労働者を保護するよりも規制緩和によって失業率が低下する」という言説を信じられるかどうかというのは、同じ構図でしょう。

近視眼的な正義が、結果的には大きな社会的不正義を生んでいることに気づくべきだ。

via: 1段階論理の正義 – 池田信夫 blog

本能が司る感情的認知と理性は別物。本能的恐怖感を超えて、帰結主義的に正しい道を選ぶことが出来るかどうか。

この21世紀、我々人類の理性が試されている、といっても過言ではないでしょう。

部族社会で生きてきた日本は、いま否応なくそれを捨てることを迫られている。資本主義は人々の精神的な紐帯を断ち切り、格差を拡大する。ハイエクは、「資本の文明化作用」を肯定したマルクスと同じく、こうした変化を不可避で望ましいものとしたが、本当にそれは人間を幸せにするのだろうか。それ以外の道はないのだろうか。

via: ハイエクの政治思想 – 池田信夫 blog

3月 19, 2009

ハイエクの「自生的秩序」

カテゴリー: economics, liberty, society — hidetox @ 9:52 am

市場から中央集権的なルールが現れる。それは経済学者が驚くことかもしれないが、マーケティング戦略の専門家なら当然だと言うだろう。スケールフリーネットワークの一極集中や、スイッチボードモデルのネットワーク外部性など、典型例だ。

Yahoo!やGoogleは、その最たるものだ。Google.govなんていうジョークがあるくらいで、一企業がWebのアーキテクチャを規定しているようなものだ。

ハイエクは、市場における自由を政治的な自由を確保するための絶対条件として考えましたが、政治における中央集権的な体制以前に、実際には市場において中央集権的なシステムが成立してしまったことになります。このことをハイエクはあまり考えていませんでした。

「小泉構造改革」は誤解の集積だった:日経ビジネスオンライン

それにしても、この記事はいろいろと考えるべきテーマを含んでいる。

3月 16, 2009

公民教育を中身のあるものに

カテゴリー: education, liberty, politics, society — hidetox @ 4:41 am

経済学が提供する基本的な考え方を、すべての人々が学習すべきであると私は固く信じている。一般教育の目的の一つは、世の中のことを人々に教えて、彼らによりよい市民になってもらうことである。
『マンキュー経済学』先生への序文

経済学の十大原理
第1原理: 人々はトレードオフ(相反する関係)に直面している。
『マンキュー経済学』

この本のなかで、駒村氏が行った調査で興味深い結果が紹介されている。それは、「大きな政府か、小さな政府か」という質問と「格差拡大か、縮小か」という質問への日本人の回答だ。「大きな政府で、格差縮小」に賛成の人が約20%、「小さな政府で、格差小あるいは格差維持」に賛成の人が約12%、「中規模政府」を望む人が約20%という結果になっている。駒村氏が文句をつけているのは、「小さな政府で格差縮小」を望んでいる約20%の人に対してである。こういう希望は、ないものねだりで、選挙の際のかく乱要因となるというのである。本当にそのとおりだ。私たちは、フリーランチはないことを前提に、社会の制度を設計し、選択する必要がある。
愚かな「ないものねだり」をやめよう

「人間は生まれながらに平等」だから「富める者が貧しい者を救うべき」という左翼の論理は、根本的に矛盾している。だから、左翼は次のいずれかを認めるべきです。

「人命の価値は生まれながらに平等ではなく、生まれた国によって差別される」→世界人類平等の理念を捨て、ナショナリストになる
「自由な移民の国では、富める者が貧しい者を救う必要など無い」→経済的平等の理念を捨て、自由市場の信奉者になる
前者はナショナリズム福祉国家(全体主義、ポピュリズム)となり、後者はリバタリアン無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)となります。
左翼諸君、私は人類みな平等、世界は一つと考える点で君らの同朋である

人は交換可能消費財が充足するほど交換不可能財が増える。貧しい国の人々は臓器を売っている。「人生お金じゃない」と言えるのは飢えてない人間だ。
経済的豊かさという衛生要因

人々は日本国に過剰な期待を抱き、過大な負担を要求する。だから年金の議論は常に見苦しい。誰もが「どうやって国にたかるか」という損得勘定に血道をあげているからだ。
年金の議論は常に見苦しい

教育は重要である。よりよい市民が増えなければ、民主制は衆愚政治に陥るのだ。

彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えれば、かなり先進的な内容だったといえる
民主制・自由主義・個人主義 −−−福沢諭吉著『学問のすゝめ』に関するWikipediaの記述

「ほんのしばらくの安全を手に入れるために、本質的で不可欠な自由を放棄してしまう人々は、自由も安全も持つ資格がない」
自由か隷属か −−−ベンジャミン・フランクリンの言葉として、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクが『隷属への道』で紹介した言葉

民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが —ウィンストン・チャーチル
衆愚政治 – Wikipedia

民主制への理解もなしに、「国が悪い」「政治家が悪い」などと言うべきではない。人類の歴史に対する尊敬の念に欠けている。批判するなら代案を出したまえ。

マンキュー氏の言うとおり、義務教育の目的を「世の中のことを人々に教えて、彼らによりよい市民になってもらうこと」に置くならば、公民教育こそ最も重要だ。読み書きそろばんの次に重視すべきであろう。

社会全員の教育水準を上げることが社会全体の福祉に繋がるはずだ、という言説に私も同意する。だから、教育をすべて自己責任で、自己費用で行うべきとは思わない。ただ、その目的(国民皆学)を達するための手段として、強制・義務教育は唯一の解なのだろうか?
保守的教育観

1月 12, 2009

自由か隷属か

カテゴリー: economics, liberty, philosophy, quote, society — hidetox @ 4:16 pm

フリードリヒ・ハイエクとベンジャミン・フランクリンと福沢諭吉。 (続きを読む…)

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