Archive for the ‘history’ Category

Power: 岸信介

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Thursday, July 24th, 2008

岸信介―権勢の政治家 (岩波新書 新赤版 (368)) 原 彬久 (著) 読み始めは退屈。我慢して読む。終盤、急に面白くなった。政権を獲ってから退任まで、駆けるように読んだ。 戦争を主導した官僚・閣僚として獄中で三年三ヶ月を過ごした「戦犯」が、その数年後に議員を経て首相となる。権力を用いて私腹も肥やしたらしい。いまでは考えられない激動の時代。たかだか60年ほど前の出来事とは。 ※関連書の読書記事:analog | Emperor Worship: 吉田茂 吉田と岸の歩みを知った上で、なるほど、この二人が二十世紀日本史において果たした役割は実に大きいことを理解した。吉田が敗戦処理(新憲法・日米安保)を、岸がその改革を(新安保)を、それぞれ担った。さらには保守合同の55年体制。今日まで続く日本の政治体制や、未解決の重要課題は、ここに端緒がある。 それにしても、なんという歴史だろうか。六十年安保騒動。アイゼンハワー大統領が訪日し、天皇陛下が迎えて、新安保調印となるはずだった。その直接的な中止原因となったのが、樺美智子事件である。 岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。 岸信介 - Wikipedia なお1960年6月には岸信介首相の招待を受けて日本を訪問しようと試みたが、安保闘争の最中の6月10日に、訪日の日程を協議するため来日したジェームズ・ハガチー大統領報道官が東京国際空港周辺に詰め掛けた訪日反対デモ隊に包囲され、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救助されるという事件が発生し、さらに6月15日には、警官隊が国会議事堂正門前でデモ隊と衝突し、デモに参加していた大学生が圧死するという事件が発生したため、最終的には訪日をキャンセルした。 ドワイト・D・アイゼンハワー - Wikipedia 憲法改正(とくに第九条)の道半ばに退陣せざるを得なかったことが岸の悔恨。歴史上の評価はどうか。さらに五十年ほどの時間が必要だろう。当時、憲法改正がなされていたならば、まったく違う歴史になっていただろう。 さて、岸政権の命脈はいよいよ尽き果てようとしていた。前述の通り、岸にとって「アイク訪日中止」の決断がそのまま「内閣総辞職」の決断につながったからである。岸はこう回想する。「いよいよ首相を辞めようと決意したのは、『アイク訪日』を断ると決めたときだ。このとき私の胆は決まった』(岸インタビュー)。しかも「アイク訪日中止」を彼に決断させた直接のきっかけが樺事件であり、この樺事件をこともあろうに国会構内で引き起こした最大の理由は、少なくとも岸にとっては「警察力の脆弱さ」にあった。「脆弱な」警察力のなかで「アイク訪日」を強行すれば、大統領を羽田に迎える天皇の身に危険が及ぶかもしれない、というのが岸の最も危惧するところであった。 pp.222-223 かくて「アイク訪日」という名の重荷を棄てた岸は、密かに「退陣」の決意を胸にしながら、「殺されようが何されようが絶対必要な」(岸インタビュー)新条約の「自然承認」だけをひたすら待つことになる。六月一九日午前零時、岸は国会周辺を含めて三〇万群集が取り巻く首相官邸のなかでこの待望の「自然承認」を迎えるのである。このとき同官邸にこもっていた側近たちは、相変わらず打ち続くデモ隊の勢いを恐れるかのように、一人去りまた一人去り、ついには実弟佐藤栄作のみが、岸とともにあった。首相官邸の警備に自信がないという小倉謙警視総監の警告を無視して「死ぬなら首相官邸で」というのが岸の心境であった(同前)。 pp.223-224 「強力な指導体制」の確立を目指し、また反共でありながら統制経済を目指した岸。辞任の遠因は「警察力の脆弱さ」だったわけだが、さらに遡ると「警職法改正」の失敗が痛手だった。警察力の強化を狙った警職法改正は、共産党などによる大衆煽動を未然に防ぐための方策として必須であった。これは安保改定構想の要石として、あらかじめ一連の文脈のなかに位置づけられていたのだ。それが失敗した。失脚に至る道のりはここに始まったといってもよさそうだ。岸自身が「今振り返ってみても残念である。千載一遇の機会を失したと言ってよい」と述懐している。 独裁的傾向のある二人の政治家、吉田と岸。彼らの生きた時代は現代に生きる我々にとっても大きな意味を持っている。 さて、今後の読書方針。さらに日本史を遡りたい。興味は尽きない。明治維新、ペリー来航、徳川幕府成立まで。終いには記紀まで。 日本人に限らず人類史という観点では『銃・病原菌・鉄〈上巻〉―1万3000年にわたる人類史の謎』や『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)』が興味深い。梅棹『文明の生態史観 (中公文庫)』やトインビーもおさえておきたい。 『岸信介』読了2008年06月25日

Tale of Galapagos: 「国民機」PC9801と「黒船」DOS/V

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, July 19th, 2008

近頃はiPhoneが脅威だとか、黒船だとか、あるいは日本の携帯は「ガラパゴス」のように独自の進化を遂げていてすごいからiPhoneなど脅威ではないとか、いろんな議論があるようだな。 わしはべつに賛成も反対もせんよ。分からんから。何も分からん。分かったふりをしとらん、というか。 ただ、ちょっと昔話をしてやろう。べつにこれは「予測」でもなんでもないよ。ただの「昔話」だよ。 こんな話をすると、未来を示唆しているとか、予測しているとか思うやつも出てくるだろう。違うよ。過去から未来を予測できるというのは妄想だよ。過去の延長に未来は無いのよ。ときに不連続な変化をするからな。 ただ、過去から何かを学ぶことはできる。それが何かは人それぞれだが。。。 過去の歴史を「パターン」などと思って、それが繰り返すなどという妄想に取り付かれないこと。その裏にある力学、人間の思惑、行動など、様々なものを読み取れるかどうか。そういう視点で歴史を振り返ってみるべきだ。「後知恵」ではなく、「当事者のつもり」で歴史の中に身をおいてみる、というのかな。。。 さて、前置きが長くなったが、むかしPC-9800シリーズ(通称キューハチ)というNECのPCがあってな、「国民機」と言われるほど、日本でPCと言えばキューハチだったのよ。 一方、日本語を扱えないIBM PC(とその互換機)は苦戦しておった。米国市場の規模から価格性能比は良かったんだが、いかんせん日本語が扱えないPCなど買う人はおらんかったのよ。 「日本市場は特殊」だったんじゃな。キューハチの牙城は崩れんと、誰もが思っておったのよ。国内の競争相手をはるかに凌駕した、独占市場じゃった。永久にNECの天下だろうと、疑うものはいなかったのよ。 しかし、DOS/Vという技術が出てきた。これは「黒船」じゃった。これによってIBM PCでも日本語が使えるようになったのだ。何が起こったか。市場は一気に様変わりしたのよ。本当にあっという間だったな。あれほど絶対だと思っていたNECの天下は、あっという間に崩れ去った。  当時すでにほとんど世界標準仕様となっていたPC/AT互換機の設計や部品なども取り込み、世界標準への歩み寄りも見せたが、過去の機種との互換性のためにNEC独自の設計を捨てることはなかった。  1995年のWindows 95発売の頃から、日本に海外メーカーの安価なPC/AT互換機が本格進出をはじめた。また、NECとの競争に敗れすでに独自路線を捨てていた日本の電機メーカーも、PC/AT互換機を投入し始めた。  当時のWindowsはすでに漢字ROMなしでも十分実用に耐える日本語環境を持っていた。また、世界で広く使われていた定番ソフトや、PC-9800シリーズ向けの有力なソフトも次々Windowsに移植された。  このため、過去のソフトウェア資産の活用以外に、高価なPC-9800シリーズを選択する理由はなくなった。  そして、1997年にNECは独自設計路線を完全に捨て去り、PC/AT互換機「PC98-NXシリーズ」を発表した。現在では、NECはあまたあるPC/AT互換パソコンメーカーの一つに過ぎず、シェアも3~4割の「普通」のメーカーとなっている。 PC-9800シリーズとは - 意味・解説 : IT用語辞典 これが何年前の話だ? だいたい15年くらい前だ。そんなに大昔ではないな。15年位前は、ほとんどのPCがキューハチだったのよ。たった15年で、あれほど「特殊」と言われた日本市場は、世界市場の一部になった。(追記:すごい勢いで変化した95年~98年の4年間くらいで、実態として主要な変化はほぼ終わっていた気もする) まあ、ただの昔話だからね、いま自分が生きている現実の問題は、自分の頭で考えなさい。現実が過去と同じように動くとは限らんからな。誰にも分からんのよ、将来のことは。分かると言う者は、ただ無知なだけだ。パラダイム・シフトと呼ばれる、基本的ルールがまったく変わってしまう状況を経験したことのない若者や、忘れっぽい者に多いな。 そして、何か大きな動きのように思えることが「シグナル」か「ノイズ」か、最初から分かることは無いと思ったほうがいいな。さんざん騒がれたあげくに、大した変化は起こらなかった、ということもたくさんある。いまみんなが騒いでいるからといって、意味のある変化かどうかは定かではないのよ。 むかしIPv6という技術が話題になってな・・・ また、いちど話題になって、定着せずに消えて、その後で復活するものもあるよな。人工知能、データマイニング、ロボット・・・ ハイプ曲線という考え方もあるな。まあ、これは、なんというか、「人間は幼年期、青年期、壮年期、老年期がありますね」といってるのに近い。30で死んだら30歳は老年かと。つまり、ハイプ曲線は厳密な理論ではないし、定量化もされておらず、科学には程遠い。現時点を分析するツールとしては役に立たない。後知恵そのもの。ただ、まあ、一つの考え方として気付きを与えてくれもする。 だから、安易に答えを求めるのをやめなさい。誰も答えなど持っていない。これが答えだ。答えを持っていると思い込むのは妄想だ。自分の頭で考えなさい。考え続けることだ。答えとは、考えるのを止めたときに得られるものだ。答えを欲しがるのは、易きに流れることだ。弱い心だ。 先が見えない不安に負けず、最後まで不安を持ち続けること。最後まで安心しない人になること。最後まで考え続ける人であること。変化の激しい世界で生き残るにはパラノイド(超心配性)であることだ。 そのうえで、ひとたび方向を決めたら、迷い無く突き進むべきだとグローブ氏は説く。それで成功するかどうかは分からないけれども、組織を率いていくときにリーダーが迷っていては失敗する確率は上がるだろう。 と、ふにゃふにゃした議論になる。おそらく多くの読者は「どちらかはっきりしない主張」を嫌うものだ。はっきり断言してほしいのだ。「お手軽な解決策」を望んでいるのだ。でも、現実世界にそんなものはないんだ。 それをもっと詳しく書いた本を次に紹介する。 →The Halo Effect: なぜビジネス書は間違うのか

Emperor Worship: 吉田茂

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Monday, June 16th, 2008

吉田茂―尊皇の政治家 (岩波新書 新赤版 (971)) 敗戦から新憲法制定まで、その後の日本を決定づける期間に、GHQ、アメリカと「戦った」尊皇・保守の政治家。 彼が日本の国体を維持するために、どれほどの労力を払ったか。たしかに完璧な憲法ではない。国体は、かなり破壊された。日米安保条約も完璧ではない。しかし、相手あってのことだ。戦勝国アメリカの意向あってのことだ。敗戦国であり占領下にある国の「自主制定憲法」としては、最善を尽くしたものだといってよいと思う。なによりも天皇制を維持した点は最大の成果だ。(昭和天皇の人柄がダグラス・マッカーサーを感動させ、彼を天皇制維持論者へ変えさせたことも大きな要因だが) 安保の交渉においては、おそらく心労からか、最後まで戦いきることは出来なかったようだ。講和・安保両条約調印会議へ当初は欠席する意向だったとか。さらには、天皇認証形式の全権委任状について、その様式までもアメリカの了解を得ようとするありさま。独立回復への気概は失われている。しかし、一人の人間が背負い込める責任をはるかに超えていた。彼を責める事は出来ない。独立回復への道筋がついた時点で、彼の中の何かが切れてしまったのだろう。 その後、吉田は政権を失う。吉田にとって最大の誤算というか、政治家としての弱点は、政党政治に順応できなかったことだろう。成果と失脚。ともにワンマンならではのものだった。 彼をワンマンたらしめた理由は生い立ちにあるだろう。本書はそこに踏み込んでいるが、吉田茂という複雑な人物は、なかなか容易に理解できない。 彼は完璧ではなかった。苦悩し、疲れ、間違えた。だからこそ魅力がある。親近感がある。同じ人間なのだと感じる。その、同じ人間が、どのような深い苦悩と戦ったのか。私はもっと知りたい。 --- 戦後60年、様々な史実が明らかになってきた。日本国憲法とは、法律学の素人がでっちあげた、日本人をふたたび欧米の脅威としないための、つまり換骨奪胎するための、米国から押し付けられた法律だったということは、もはや常識になりつつある。 日米安保条約は、憲法九条から生まれた必然だ。米国は間違いを犯したともいえる。日本が再び脅威とならないように「平和憲法」を押し付けた。その直後、共産主義の脅威から日本をアジアにおける反共闘争の拠点と位置づけ、米軍の重要な拠点とした。日本の戦後における混乱に乗じた「共産革命」を恐れ、あるいは北朝鮮やソ連の脅威から「自衛」をするために再軍備を迫った。ならば最初から「平和憲法」を押し付けたのは間違いだった。とはいえ、ドイツが第一次世界大戦から、わずかな期間で再び世界大戦の口火を切ったことを考えると、当時の感情として、日本に再軍備を許すのは無理だったのだろう。それが合理的判断ではなかったとしても。 この「平和憲法」と「安保条約」について、日本は、そろそろ舵を切るべきではないだろうか。