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5月 21, 2009

嫌煙家にも二種類いる

カテゴリー: economics, education, liberty, society — hidetox @ 12:39 am

嫌煙家には、個人的に煙草が嫌いな人と、「煙草は悪だ」と盲信して社会正義を代弁するかのごとき人がいる。

私は前者。物理的に煙が嫌いだ。拒否反応が出る。煙草の煙が目に染みて、涙が止まらなくなるのだ。だから、私は個人的にその場の喫煙者に禁煙をお願いする。あくまで煙を避けるためだ。

後者の人間は「喫煙は悪」だと信じているので、対話をする気がない。喫煙者に対して上から正義を説く。また、TPOを問わず「喫煙は悪」であり、妥協の余地がない。

こういう人は手に負えない。自分が100%正しいと信じているから、対話の可能性が断たれている。

正義どころか公害だ。外部不経済。煙草の煙よりも深刻な公害だね。

他人の権利や社会正義を代弁する人は思考停止に陥りやすい。

最大の特徴は「自分が当事者ではないことに出しゃばっていく」ということだ。

その行動様式は、全体主義国家で秘密警察に告げ口する小市民に、似て無くもない。「禁煙ファシズム」とは言い得て妙だ。

- 禁煙ファシズムを加速させるマスコミとJRは人殺し!?(前編) – 日刊サイゾー
- 「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン)

偉そうなことを書いてしまった。許してちょんまげ。
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4月 16, 2009

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記)

カテゴリー: education, philosophy, society — hidetox @ 7:40 pm

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』という記事では、わざわざ次のように書いたが、それでも残念ながら気を悪くした人がいるようだ。

俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。

まあ、Tumblrで引用された一部分だけを見て反応した人も多いのだろう。そういうものだ。それを批判するつもりもない。ちゃんと原典を読んでくれない人も多いのだろう。

それで感情的な批判をしている人もいて、中身のない罵倒を聞く耳など持たないが、筋の通った反論は傾聴するので、ぜひ筋の通った反論を聴きたいと思う。

それとは別に、主張を誤解している人もいるようだし、ここで補足しておく。

提起した問題は簡単なことだ。「これを喧伝する人は、自分が彼の立場になったとしても堪えられるのか?」という問いだ。

1)この答えがYESなら、恥じることなく喧伝すればいいだろう。(だから、この1に該当する人が腹を立てているとしたら、その理由が分からない。あなたを批判していないのだ。原典を読まずに誤解したケースだろうか)

2)この答えがNOなのに喧伝する人は、筋が通っていない。個人的には「自分に都合のいいように正義を曲げる人」と思える。とはいえ、それも言論の自由であり、尊重するのだが。「お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない」のだから。(わざわざこう書いたのだから、批判や反論はあっていいと思うが、感情的な罵倒をする人は何を考えているのだろうか、その心理状態が、じつに興味深い)

3)答えがNOだが、その引き受けるべき正義について無自覚な人もいるだろう。それを指摘したのが、例の記事では中心的なメッセージだった。これは「説得」だった。(「ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ」)

なお、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」を規制せよ、などとはまったく言っていない。言論の自由だ。私は、むしろ普通の人よりもプライバシーを尊重していないといえるだろう(リバタリアンだし)。だから、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」への批判はプライバシー権の観点ではない。

もちろんグーグル社に対して「ストリートビューでうちの庭の中が見えるのは困る」と抗議するのは自由だし、権利侵害がある場合には修正も必要だろう。しかしグーグルに修正を強制する権利はだれにもない。憲法に定める表現の自由は民主主義が成り立つための絶対条件であり、安易に例外を作ってはいけないのだ。他人の言論を制限しようとする「権利のインフレ」は表現を窒息させ、ウェブを不自由にするだけだ。

via: 「権利のインフレ」が表現を窒息させる

では、プライバシーとは関係ない議論としたら、どういう議論だったかというと、むしろ社会主義者が好むような道徳論、正義論に近い。「もし自分があの人の立場だったら」「立場の交換に堪えられるかどうか」という論法のだ。あくまで法規制などではなく、そういう個々人のモラルの範囲の議論をした。目的は批判ではなく説得だからだ。そういうことをする人を減らしたいと思ったのだ。キリストは「して欲しいことを他人にもしろ」と言ったし、孔子は「して欲しくないことは他人にもするな」と言った。そういうことだ。

以上、『赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』への補足とする。

4月 4, 2009

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ

カテゴリー: education, philosophy, society — hidetox @ 1:14 am

タンブラーを見ていたら、回ってきた記事がある。あえてリンクしない。この記事には写真も載っていた。

下半身丸出しで、シルバーシートに横たわってる、泥酔しているサラリーマンがいました。 靴や靴下、ジーパンなどを脱ぎ散らかし、股間をいじくっていました。 車内は一丸となって彼を取り囲い、写メールの嵐でした。

掲載されていた写真は、おそらく、これを書いた本人の撮影だろう。顔にボカシを入れていたが、そういう問題ではない。

その人の世間体を、人生を、破壊するに足る行為をしている自覚が無い(訂正:ことを)としたら、空恐ろしく感じる。

「絶対流出しないから」といって撮影したプライベート写真の流出で人生を破壊された人が俺の知るかぎり5人はこの世に存在する。実態はその何十倍か、何百倍か。。。

こういう写真撮る人間は、「自分がその立場だったら」と想像することができないんだろうか。

自分を安全圏において人を笑いものにする人は、自分がそういう立場になったときは誰からも守ってもらえないかもしれない、と割り切っているのだろうか。

人によって取る行動は違うかもしれない。車掌を呼ぶとか、露出部を隠してやるとか、起こしてやるとか、、、なんにしても、写真を撮るのは最低の行為だ。

俺のほうがおかしいのだろうか?

因果応報を自覚している人、自分がその立場になったときの覚悟ができて笑っている人なら、筋は通っている。それを否定はしない。ただ、俺が嫌悪感を頂くというだけに過ぎない。お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない。

ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ。

俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。

追記:
赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記)

3月 30, 2009

人類の理性は帰結主義を受け入れるか

カテゴリー: economics, education, history, law, liberty, philosophy, politics, science, society — hidetox @ 10:35 pm

地獄への道は善意で敷き詰められているという記事では、「善意」が社会にもたらす悪影響を紹介しました。

そのような問題を解決するために必要なのは、人類の理性です。人類は、帰結主義的な思考によって政治的意志決定をしていかなければなりませんが、それを阻むのが感情・本能です。つまり、理性によって、それらを押さえ込まなければ、人類は感情・本能に従って道を誤ります。

帰結主義(きけつしゅぎ、英語 consequentialism)とは、行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結(結果)を考慮に入れる立場を指す。功利主義は、帰結主義のひとつの立場である。

via: 帰結主義 – Wikipedia

帰結主義的に正しくても、感情的には受け入れがたいというのが「労働者保護の撤廃」だったりします。それにより失業率が低下し、国民の経済厚生が向上するはずなのに。

拒否パターン1:道徳・価値観・倫理的に、受け入れがたい。
拒否パターン2:違和感・恐怖から、受け入れがたい。

前者には、まだ尊重すべき論理があります。しかし、後者の理由による拒否もあるということに気付きました。これは、本当にくだらないことですが。

自転車に乗れない人に似ています。「スピードを出せば安定するんだよ」と言われても、スピードを出すのは怖いから、なかなか乗れるようにならない。本能はその言説・理論を「信じる」ことに抗うからです。それに打ち克つのは理性です。

「ある程度はスピードを出したほうが安全」というのは帰結主義的に正しい言説であるけれど、感情的(本能的)には受け入れがたいわけです。マトリックスのモーフィアスなら「速く動こうと思うな。速いと知れ (Don’t think you are, know you are)」と言うところ。

つまり、「本能的恐怖を克服しなければ自転車に乗れるようにはならない」のですが、それと「労働者を保護するよりも規制緩和によって失業率が低下する」という言説を信じられるかどうかというのは、同じ構図でしょう。

近視眼的な正義が、結果的には大きな社会的不正義を生んでいることに気づくべきだ。

via: 1段階論理の正義 – 池田信夫 blog

本能が司る感情的認知と理性は別物。本能的恐怖感を超えて、帰結主義的に正しい道を選ぶことが出来るかどうか。

この21世紀、我々人類の理性が試されている、といっても過言ではないでしょう。

部族社会で生きてきた日本は、いま否応なくそれを捨てることを迫られている。資本主義は人々の精神的な紐帯を断ち切り、格差を拡大する。ハイエクは、「資本の文明化作用」を肯定したマルクスと同じく、こうした変化を不可避で望ましいものとしたが、本当にそれは人間を幸せにするのだろうか。それ以外の道はないのだろうか。

via: ハイエクの政治思想 – 池田信夫 blog

3月 16, 2009

公民教育を中身のあるものに

カテゴリー: education, liberty, politics, society — hidetox @ 4:41 am

経済学が提供する基本的な考え方を、すべての人々が学習すべきであると私は固く信じている。一般教育の目的の一つは、世の中のことを人々に教えて、彼らによりよい市民になってもらうことである。
『マンキュー経済学』先生への序文

経済学の十大原理
第1原理: 人々はトレードオフ(相反する関係)に直面している。
『マンキュー経済学』

この本のなかで、駒村氏が行った調査で興味深い結果が紹介されている。それは、「大きな政府か、小さな政府か」という質問と「格差拡大か、縮小か」という質問への日本人の回答だ。「大きな政府で、格差縮小」に賛成の人が約20%、「小さな政府で、格差小あるいは格差維持」に賛成の人が約12%、「中規模政府」を望む人が約20%という結果になっている。駒村氏が文句をつけているのは、「小さな政府で格差縮小」を望んでいる約20%の人に対してである。こういう希望は、ないものねだりで、選挙の際のかく乱要因となるというのである。本当にそのとおりだ。私たちは、フリーランチはないことを前提に、社会の制度を設計し、選択する必要がある。
愚かな「ないものねだり」をやめよう

「人間は生まれながらに平等」だから「富める者が貧しい者を救うべき」という左翼の論理は、根本的に矛盾している。だから、左翼は次のいずれかを認めるべきです。

「人命の価値は生まれながらに平等ではなく、生まれた国によって差別される」→世界人類平等の理念を捨て、ナショナリストになる
「自由な移民の国では、富める者が貧しい者を救う必要など無い」→経済的平等の理念を捨て、自由市場の信奉者になる
前者はナショナリズム福祉国家(全体主義、ポピュリズム)となり、後者はリバタリアン無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)となります。
左翼諸君、私は人類みな平等、世界は一つと考える点で君らの同朋である

人は交換可能消費財が充足するほど交換不可能財が増える。貧しい国の人々は臓器を売っている。「人生お金じゃない」と言えるのは飢えてない人間だ。
経済的豊かさという衛生要因

人々は日本国に過剰な期待を抱き、過大な負担を要求する。だから年金の議論は常に見苦しい。誰もが「どうやって国にたかるか」という損得勘定に血道をあげているからだ。
年金の議論は常に見苦しい

教育は重要である。よりよい市民が増えなければ、民主制は衆愚政治に陥るのだ。

彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えれば、かなり先進的な内容だったといえる
民主制・自由主義・個人主義 −−−福沢諭吉著『学問のすゝめ』に関するWikipediaの記述

「ほんのしばらくの安全を手に入れるために、本質的で不可欠な自由を放棄してしまう人々は、自由も安全も持つ資格がない」
自由か隷属か −−−ベンジャミン・フランクリンの言葉として、フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエクが『隷属への道』で紹介した言葉

民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが —ウィンストン・チャーチル
衆愚政治 – Wikipedia

民主制への理解もなしに、「国が悪い」「政治家が悪い」などと言うべきではない。人類の歴史に対する尊敬の念に欠けている。批判するなら代案を出したまえ。

マンキュー氏の言うとおり、義務教育の目的を「世の中のことを人々に教えて、彼らによりよい市民になってもらうこと」に置くならば、公民教育こそ最も重要だ。読み書きそろばんの次に重視すべきであろう。

社会全員の教育水準を上げることが社会全体の福祉に繋がるはずだ、という言説に私も同意する。だから、教育をすべて自己責任で、自己費用で行うべきとは思わない。ただ、その目的(国民皆学)を達するための手段として、強制・義務教育は唯一の解なのだろうか?
保守的教育観

3月 15, 2009

経済リテラシー

カテゴリー: economics, education, literacy — hidetox @ 1:52 pm

経済学が提供する基本的な考え方を、すべての人々が学習すべきであると私は固く信じている。一般教育の目的の一つは、世の中のことを人々に教えて、彼らによりよい市民になってもらうことである。
『マンキュー経済学』「先生への序文」

良き市民(citizenship)を増やすために経済学の学習を啓蒙する。

議論と価値観−−−JSミル的言論論

カテゴリー: education, literacy, philosophy — hidetox @ 2:50 am

経済・社会に関する素人議論においては、議論の基本的なリテラシーに欠けている人を多く見かけます。

実証的議論と規範的議論の区別をしましょう。実証的議論とは「世界はこう動いている」という事実の認識・科学的視点であり、規範的議論とは「〜べきである」という価値観です。

多くの人が、規範的議論、つまり「べき論」ばかり語っている。

「格差は無くなるべき」とか「企業は社会に貢献すべき」とか「企業は雇用を維持すべき」とか・・・

どれもが規範的議論であり、単なる一面的な価値観に過ぎない。

そして「絶対に正しい価値観」などといったものはない。そのような思想は危険です。異なる価値観を持つ人間の排斥に繋がる。

価値観を包摂するメタな価値観

2月 28, 2009

経済は文化のしもべである。

カテゴリー: art, culture, economics, education, philosophy, quote, society — hidetox @ 3:57 pm

アートのネクストコモセンス/山口裕美: 第8回 福武總一郎(ふくたけ そういちろう)氏

 要するに今の時代、現代の人っていうのは何が目的で何が手段か、わからなくなっているんですね。それが「経済は文化のしもべ」。
 
 本当に日本という国、アメリカもそうかもしれないけども、そこはやっぱり経済が目的化してる。お金儲けが目的化していて、そのお金で何するかを誰も考えてない。もっというと quality of lifeっていうか「上質な生き方」を得るのが一番目的だとすればね、お金を得て何をすべきと考えた時、それは文化というものをもっと大切にしなくてはならんと真剣に思っている。もちろん福祉とか医療とか安全とか安心とか、環境問題などが前提にあってですよ。そういう中で目的を、もう少し考えないとダメなんです、と言っているんです。それを直島のプロジェクトでは医療とか福祉とかね、あるいは環境問題、ゴミの焼却処理場も持ってきたりしながら、そういうものを考慮しながら現代美術を使った街づくりをしている大きな理由なんです。

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analog | 経済的豊かさという衛生要因

人は交換可能消費財が充足するほど交換不可能財が増える。貧しい国の人々は臓器を売っている。「人生お金じゃない」と言えるのは飢えてない人間だ。

人は経済的豊かさによって「お金じゃないもの(交換不可能財)」の範囲が拡大する。貧困国より先進国でアートが発展しているのは偶然ではない。

「人生お金じゃない」と思う人ほど、経済的豊かさをまずは実現すべきであって、ほんとうに「お金じゃない」人生は、お金の先にある。ところが「人生お金じゃない」と言って、まるで「金儲けは悪だ」と言わんばかりに資産家を妬む人がいる。これはあべこべだ。経済に関する無知のせいだ。正しい知識の啓蒙が必要だと考える。

私は「人が経済的に豊かになるにはどうすればいいか」という問題を考えていきたい。市井の経済学者でありたい。

↓ ↑

analog | 道徳と経済

道徳を忘れた経済は犯罪だが、
経済を忘れた道徳は寝言である。
二宮尊徳

2月 17, 2009

壁と卵/翻訳という名の

カテゴリー: critique, education, literacy, literature, media, politics — hidetox @ 8:58 am

YouTubeで動画を見ると、文字通り「明言」を避けていて、こんなにはっきりした物言いをしてない。文学者のスピーチをおまえ(新聞記者)がかってに解釈すんな、原文載せろよって思う。エルサレム賞の村上春樹さん「ここに来ること選んだ」 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

村上さんは、戦争を生む社会システムを「我々を守る一方、時には組織的な殺人を強いる『壁』」と呼び、人間を壁にぶつかると割れてしまう「卵」にたとえた。ただ、卵は個性を持つかけがえのない存在であり、自分は「常に卵の側に立つ」と宣言した。その上で、「壁は高く勝利が絶望的に見えることもあるが、我々はシステムに利用されてはならない。我々がシステムの主人なのだ」と述べた。

テレビ朝日ニュース・ステーションでは意図的か削除されている部分がある。自虐的に「あまのじゃく」と述べたあとの招集の拍手。下の動画の0:28から。Murakami defies protests to accept Jerusalem prize | Books | guardian.co.uk一斗缶 村上春樹エルサレム文学賞受賞スピーチ抄訳Kittens flewby me  村上春樹さんのイスラエル講演をハルキ風に和訳してみた中国新聞・詳報嘆きの壁や、ハンプティ・ダンプティも連想させる。

ハンプティ・ダンプティは、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にも登場し、アリスと意味論についての議論を交わす。「わたしは言葉を使う時に」ハンプティは、いささか威張りくさった口調で言いました。「自分がえらんだ意味だけで使うのだ――それ以上でも以下でもなく」

壁と卵 – 池田信夫 blog

Novelists aren’t the only ones who tell lies – politicians do (sorry, Mr. President) – and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren’t prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It’s hard to grasp the truth in its entirety – so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.

「小説家は嘘をつく商売だ」「小説家の嘘は大げさなほど褒められる」「今日だけは真実を述べようと思う」この日、村上はハンプティ・ダンプティなのだ。

彼の置かれた立場(空爆を命じたペレス首相が目の前に座っている)

これが政治的にどれほど挑戦的なことか想像に難くない。恐ろしく想像力の欠如した者達が「あいまいな文章だ」などと批判しているが、自分がペレス首相の前で何と言えるか考えてみればいい。

2月 13, 2009

民主制・自由主義・個人主義

カテゴリー: Japan, book, education, history, politics, society — hidetox @ 3:47 am

福沢諭吉が嘆いた150年前のだらしない日本人と、いまの日本人。

学問のすゝめ – Wikipedia

彼は攘夷の気分が蔓延していた当時に攘夷を否定し、また、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わるもので、単に学ぶ事を知らず無知であるのに強訴や一揆などを行ったり、自分に都合の良い事ばかりを言う事は恥知らずではないか。法律で守られた生活を送っていながら、それに感謝をせず自分の欲望を満たすために法律を破る事は辻褄の合わない事だ。」(意訳)等と、大政奉還から約4年半後の世相を考えれば、かなり先進的な内容だったといえる [1] [2]。

右傾化や移民排斥に陥る空気はないか?

自らが学ぶ努力をしないから無知で貧しいというのに、持てる者から奪おうとしてないか?

というのは150年前の日本人に向けた福沢諭吉のメッセージだ。

150年も経ったんだ。現代の日本人には当てはまらないだろう。

と思ったら大間違いだ。

格差論はどうか?
派遣村はどうか?
労働組合はどうか?

我々は愚かだ。

自由な社会は、我々が賢くあることで維持できる。

我々は十分に賢いだろうか?

我々は学ばなければならない。

404 Blog Not Found:近代的日本国民の青写真 – 書評 – 現代語訳 学問のすすめ

そして明らかになった「日本ならではの国民像」が、いかに当時から変わっていないかに、読者は文体の変容ぶり以上のショックを受けるに違いない。その理想も、そして現実も。未だに政府を「お上」と呼び、外圧にはへいこらする現代日本人を見て、著者はどう答えるであろうか。

* analog | 学問のすゝめ
* analog | 依頼心(資本論)
* analog | 保守的教育観
* analog | 政府と政治の区別はついてる?
* analog | 自由か隷属か
* analog | 新訳・現代語訳の重要性
* analog | 「民主主義」は誤訳

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