Archive for the ‘critique’ Category
Saturday, August 16th, 2008
「スカイ・クロラ」と「希望の国のエクソダス」に見る「希望」のかたち。
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Friday, August 15th, 2008
何度も死にたいと思い、いまだその病理を抱えたまま生きている人が作ったかのような物語。
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Wednesday, August 13th, 2008
この映画は、初対面で笑顔を見せない人に似ている。
この映画は、挨拶を無視する人に似ている。
この映画は、呼びかけても返事をしない人に似ている。
「崖の上のポニョ」を観て不安になる大人の心理。
それは社会的な約束事(プロトコル)の無視である。
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Wednesday, August 13th, 2008
宮崎監督には、そもそも「ドラマのつじつまを合わせる」ことへの興味が最初からないとしか思えません。
via: たけくまメモ : パンダとポニョ(2)
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Friday, August 1st, 2008
本編(1)
正常な人間とはなんだろう? ひどいこと、下劣なことを一度もしたことがない人間だろうか? その通り。しかし、下劣なことを一度も考えたことがないなんて人間がいるだろうか? いや、ひょっとしたら考えたことさえなくても、十年か三〇年か前にその人間のうちにひそむ何かが勝手に考え、湧き出てきたことくらい、あるんじゃないかな。人間本人のほうはそれから身を守り、忘れてしまい、自分がそれを実行に移さないとわかっているので、それをもう恐れることもないーーーそんなことが。さて、今度はこんなことを想像してみて欲しい。あるとき突然、他の人たちの真っただ中で、昼日中にそれが実体化して肉を備えた姿となって現れ、きみにまとわりつき、それを叩き潰そうとしてもどうにも叩き潰せないーーーそうなったら、どうだろう? それはどんなものだ? pp.117-118
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Wednesday, July 23rd, 2008
前回:analog | Ponyo: 崖の上のポニョ(1)
この映画の表現は狂人的だ。正常な精神を持った大人の表現者が取れるような表現ではないと思う。なぜなら、こだわりが、なさすぎる。
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Tuesday, July 22nd, 2008
それと知らず公開初日に六本木ヒルズのTOHOシネマズ(スクリーン7)で観た。
「崖の上のポニョ」は尋常ではなく文学でありアートである作品だった。たかだか子供向け娯楽映画だと思って観る人の多くも、そのことに気づくだろう。ただ、表現する言葉を持つ人は少ないのかもしれない。映画の視聴体験が多く、感想を言える人はたくさんいるだろうが、アートを自分の言葉で語ること(アート・リテラシー)はそれほど普及していないから。だから、「なにかすごいものを観た」といった感想になっても、それ以上の具体的な言葉にならないのだろう。
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Sunday, June 29th, 2008
ここには小便器が……無い。
壁。
Waterfall(滝)
2008年
焼結タイル、コンクリート
神宮外苑公衆便所蔵
※インスタレーション(地図)
デュシャンの<Fountain(泉)>は芸術家の創作的要素を一切含まないように見える「既製品の便器」をもってして「作品だ」と提出することによって、いわば「見立て」だけでもアート作品として成立しうるか、という問題提起だった、そういう解釈も可能であろう。
そこには明確に「<これ>が作品である」と提示された<もの(object)>が存在した。
しかし、<滝>とは何か。ここには作品として提示された<もの(object)>が無い。
もはや便器は無いのだ。
とはいえ、たしかに何かが提出されているのは間違いない。それは何か。いわば<状況(situation)>である。ここに作家の問題意識がある。作品は<創作物(production)>であることをやめて、<もの(object)>の「見立て」でも作品であると受容されたが、では<もの (object)>であることすらやめて、<状況(situation)>となることは受容されうるのか。ここに作家から鑑賞者への問題提起がなされているのである。挑戦状と言ってもいいだろう。
あなたはこれを作品として認めるだろうか。
・・・という作品は吾が妄想の産物(production)であるわけだが。
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Saturday, June 21st, 2008
グラフィック、テキスタイル、プロダクト、Web、、、といったデザインの対象による分類ではなく、デザインの方法を分類する試み。
デザインをとりまく主体。
・デザイナ
・クライアント
・デザイン対象
・消費者
・社会
どの主体に答えを求めるか。
・デザイナ自身の自己表現としてのデザイン
=表現型(フィリップ・スタルクのレモン・スクイーザー)
・クライアントの中に答えを見出すデザイン
=問診型(佐藤可士和の明治学院大学)
・デザイン対象そのものから答えを見出すデザイン
=べき型(山中俊治のSuicaタッチパネル)
・消費者に答えを見出すデザイン
=需要型(坂井直樹のBe-1)
・社会に答えを求めるデザイン
=環境型(ナガオカケンメイのSAMPLING FURNITURE)
あるいは、どの関係性に答えを求めるか。
・クライアントとデザイン対象との関係性に答えを求めるデザイン
=らしさ型(佐藤卓のグリーンガム)
・クライアントと消費者との関係性に答えを求めるデザイン
=コミュニケーション型(佐々木宏のソフトバンクモバイル)
・クライアントと社会との関係性に答えを求めるデザイン
=レゾンデートル型(中西元男のINAX)
・デザイン対象と消費者との関係性に答えを求めるデザイン
=ありそうでなかった型(深澤直人の壁掛式CDプレーヤー)
・デザイン対象と社会との関係性に答えを求めるデザイン
=定番型(柳宋理の調理器具類)
・消費者と社会との関係性に答えを求めるデザイン
=スタイル型(ジョルジオ・アルマーニのARMANIブランド)
もちろんデフォルメしてある。試案として。
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Friday, June 20th, 2008
浜田庄司という高名な陶芸家がいた。彼が長年の研鑚の結果生み出したのが、柄杓掛けという技法である。一抱えもあるような大皿に、柄杓で釉薬をひょい、ひょいと掛けていく。所要時間は約15秒。こうしてできた皿が、何百万という価格で売れるのである。それを見たある人がこう言った。「何百万円のものにかける時間が15秒というのはあんまりじゃないか」と。その問いに、ありし日の浜田庄司はこう答えたという。
「15秒プラス60年と考えていただきたい」
via: コスト主義の耐えられない軽さ - 思索の副作用 - Tech-On!
タイトルの「人生を決めた15分」はなんとフェラーリ会長の前で新車をたった15分でデザインした著者の武勇伝だ。しかし、物理的時間ではたった15分であっても、そこには著者の経験と情熱のすべてが濃縮されていた。
「僕らの商売には「ハレとケ」ではないが、2つのモードがある。1つめは「溜め」で、自分の中で材料を溜め込み、熟成し、並べ替える作業をしている。これは外から見ても知ることのできない部分で、一見何もしていないかのようだ。もう1つは「発散」で、一気阿成」にアウトプットするモードだ。絵を描き、シナリオを形にし、成果物として世に問う。人はこの部分だけを見て、仕事をしていると思うものだ。」
via:
人生を決めた15分 創造の1/10000 - 情報考学 Passion For The Future
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