Archive for the ‘art’ Category

Hopelessful: 無力感と絶望と希望と

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, August 16th, 2008

「スカイ・クロラ」と「希望の国のエクソダス」に見る「希望」のかたち。 この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。 ...  でも歴史的に考えてみると、それは当たり前だし、戦争のあとの廃墟の時代のように、希望だけがあるという時代よりはましだと思います。九〇年代、ぼくらが育ってきた時代ですが、バブルの反省だけがあって、誰もが自信をなくしていて、それでいて基本的には何も変わらなかった。今、考えてみると、ということですが、僕らはそういう大人の社会の優柔不断な考え方ややり方の犠牲になったのではないかと思います。  愛情とか欲望とか宗教とか、あるいは食料や水や医薬品や車や飛行機や電気製品、また道路や橋や空港や港湾施設や上下水道施設など、生きていくために必要なものがとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどのバカでない限り、中学生でそういうことを考えない人間はいなかったと思います。 『希望の国のエクソダス』p.314-315  今、映画監督として何を作るべきか。私は、今を生きる若い人たちに向けて、何かを言ってあげたいという思いを、強く抱くようになりました。  彼らの生きるこの国には、飢餓も、革命も、戦争もありません。衣食住に困らず、多くの人が、天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました。しかし、裏を返せば、それはとても辛いことなのではないか──と思うのです。望んで天国に逝った男が数日で飽きてしまった、という寓話がありますが、欲しかったものを目の前にした瞬間、そのものの本質が立ち現れる。人間とは、贅沢なものです。 via: 株式会社IGポート : 日本テレビ プロダクション I.G提携作品 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(監督:押井 守)製作決定のお知らせ 人気小説家・森 博嗣の原作「スカイ・クロラ」シリーズを アニメーション映画化 : News2u.net  この映画は、主人公のモノローグと共にクライマックスを迎えます。  それでも……昨日と今日は違う 今日と明日も きっと違うだろう いつも通る道でも 違うところを踏んで歩くことが出来る  いつも通る道だからって 景色は同じじゃない それだけではいけないのか それだけのことだから いけないのか これが、この映画のテーマであり、若い人たちに伝えたいこと。  たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う。木々のざわめきや、風のにおい、隣にいる誰かのぬくもり。ささやかだけれど、確かに感じる事の出来る事を信じて生きてゆく──。そうやって世界を見れば、僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない。同じ日々の繰り返しでも、見える風景は違う。その事を大事にして、過酷な現代を生きてゆこう。  僕はこの映画を通して、今を生きる若者達に、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな「真実の希望」を伝えたいのです。 via: 株式会社IGポート : 日本テレビ プロダクション I.G提携作品 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(監督:押井 守)製作決定のお知らせ 人気小説家・森 博嗣の原作「スカイ・クロラ」シリーズを アニメーション映画化 : News2u.net 村上龍『希望の国のエクソダス』で語られる「希望」は真に迫る。それは覚悟と決断と実行により獲得される「希望」だ。もちろん、この小説で示される希望のかたちは創作に過ぎず、これが実現するかどうかなど問題ではない。希望とは自らの手で未来を切り開く過程にこそあるのかもしれないと思った。私はこの小説を読んでわくわくした。現実にこんなふうに閉塞感が打開され、未来のビジョンが示されたらどうだろう。しかも自分がそれに貢献できたら。そう思うとゾクゾクした。自己効力感。これこそが「希望」だ。 一方、「スカイ・クロラ」はどうか。監督は若者へ希望を語ったと言う。しかし、私には押井守が語る「希望」が分からなかった。私に分かったのは、「押井守は希望がないと思っていて、それについて観客は自分で考え、悩むべきだと考えているようだ」ということだった。厭世的で暗澹たる問題提起である。無力感。希望の何かが示されたわけではない。 たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う。木々のざわめきや、風のにおい、隣にいる誰かのぬくもり。ささやかだけれど、確かに感じる事の出来る事を信じて生きてゆく──。そうやって世界を見れば、僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない。同じ日々の繰り返しでも、見える風景は違う。その事を大事にして、過酷な現代を生きてゆこう。 これのどこが「希望」なのだ? 余命宣告された人間が、残りの時間をどう「生きる」かを考える、そんな映画のメッセージにふさわしい。それはたしかに「希望」の一種ではあるが、未来を生きる若者へ向けた「希望」ではない。少年、若者が「老成」してしまっている社会の閉塞感を「希望がない」と問題にしているのだろう。ならば、現状肯定的で受動的で「気の持ちよう」でなんとかしようという「希望」など、否定すべき対象であってもビジョンにはなりえない(※)。無力感からくるニヒリズムでしかない。 この閉塞した社会に必要なのは「自分たちには世界を変える力がある」「自分たちで世界を変えよう」という内容の「希望」だ。 (※仏教、禅の「悟り」に通じる点があると思う。全面的に否定するものでもない。ただ、未来を生きる若者に対して提示すべき希望ではないというだけだ) むしろ「生きることの意味の無さ」が伝わってしまうような映画だ。べつに「これが生きる意味だ」と示してくれる必要はない。ただ、同じ考えさせるにしても、もっと前向きに考えさせようとは思わなかったのか。対象が「若い人」なら、もう少し親切でもいいだろう。あるいは「死に至る病」を観客と共有したいのだろうか。 via: analog | The Sky Crawlers: スカイ・クロラ 若者に示すべきは「自己効力感」だ。自分の手で未来を変えることができるというビジョン。それこそが希望だ。 現代日本に希望が不足していることなど、言われなくても、よほどのバカでもない限り分かっているのだ。問題提起だけで終わらないで欲しい。希望の形を示せとは言わない。たかが映画にそんな期待はしない。ただ、希望に向かって必死に生きる主人公の格闘を、前向きに描いて欲しい。希望の形は様々だが「前向きに生きる」という一点は共通するだろう。 勝てないと分かっているティーチャーに挑むことが「希望」の象徴として描かれているのだろうか。それはある種の哲学的、文学的な表現としては成立するとは思うが、「今を生きる若者達に、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな『真実の希望』を伝えたい(※押井守発言)」という意図ならば、病的に倒錯した表現だ。 問題は、「勝てないと分かっている相手に挑むこと」が「前向きな希望」として提示されているのか、という点だ。「挑む」という行動だけを観れば「前向き」であるかのように見えてしまうが、「勝てないと分かっている」ならば、それは「無力感」そのものである。はっきりと「自殺」だ。あるいは、「勝てるかもしれない」と少しでも考えていたとするならば、これは「自己効力感」といえそうだが、しかし、その芽をすかさず摘み取る展開(※)は、やはり病的に倒錯していると思う。 (※一方で、その余りにもあっさりした幕引きは、ネガティブなカタルシスをもたらす芸術的表現としては秀逸だとも思う。この点で、私はこの作品そのものについて否定的ではない) 観客は嫌と言うほど出口のない苦悩を味わう。劇場を出るときには気を病んでしまう人もいるだろう。そういう作品として良くできているからだ。あらゆる意味で救いがない世界。出口のない迷路。現代病。サルトル的苦悩。 via: analog | The Sky Crawlers: スカイ・クロラ 鬱映画としては良くできている。監督が「現代の絶望を表現した」と言えば拍手しよう。その意図は完璧に実現されている。一方で、監督の意図が「若者へ希望を語る」ことだとしたら、かなり失敗していると思う。 「希望」の提示が倒錯した表現になる、それ自体が深刻な現代病の症状であるようにも思う。 現代に必要な「希望」は、もっと率直な「希望」だ。

The Sky Crawlers: スカイ・クロラ

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Friday, August 15th, 2008

何度も死にたいと思い、いまだその病理を抱えたまま生きている人が作ったかのような物語。 「崖の上のポニョ」が「宮崎駿の夢、妄想、垂れ流し映画」だとするならば、「スカイ・クロラ」は「実存への嘔吐感、この世界への呪詛、自殺願望、垂れ流し映画」だ。 「崖の上のポニョ」は「神経症と不安の時代に、宮崎駿がためらわずに描く、母と子の物語」と謳われているが、「スカイ・クロラ」は「神経症と不安を、押井守がためらわずに描く、愛と生と死の物語」だ。 もし、この映画が単館上映ならば、上出来な映画だったと素直に思う。観客は嫌と言うほど出口のない苦悩を味わう。劇場を出るときには気を病んでしまう人もいるだろう。そういう作品として良くできているからだ。あらゆる意味で救いがない世界。出口のない迷路。現代病。サルトル的苦悩。 地獄とは他人である<L'enfer, c'est les Autres.>。そのうえ、死においては、すでに賭けはなされたのであって、もはや切り札は残されていない。わたしを対自から永久に即自存在へと変じさせる死は、私の実存の永遠の他有化であり、回復不能の疎外であるといわれる。 via: ジャン=ポール・サルトル - Wikipedia 例えば「ミナ」(1993年、フランス)は「鬱を完璧に描いている映画だ」と経験者は語っていた。死にたくなるときの気持ちがリアルに描かれていると。(※ちなみに、今回の批評はその人との議論にもとづく) 単館系というのは「観たい人が観る映画」だ。単館系なら、どんなに観客の精神を病む映画でも構わないだろう。うっかり観てしまう人など、ほぼゼロなのだから。その点で「スカイ・クロラ」がもし単館系なら、上出来な作品だと思う。 しかし、このような「自殺願望垂れ流し映画」が全国で大規模に上映されることには不安を感じる。「崖の上のポニョ」とは違う意味で、こんなものが全国の映画館で観られるというのは、とんでもないことだと思う。 人間はみんな「終わり無き日常」の迷路を彷徨っていて、迷路に気がついたところでそこから脱出するでもなく、何か事件があったように見えたとしても結局何も変わらない。 それってリアルだけど、はなはだ辛気くさい話で、押井守は鬱映画の巨匠だという思いを再確認しました。 via: たけくまメモ : スカイ・クロラ見てきた 押井守監督が「鬱映画の巨匠」として完璧な映画を作る日が来たら、、、恐ろしい。こういう映画を作るなら、アングラに潜ってもらいたい。数十万人にみせるものではないと思うのだ。そして、そのほうが監督の評価も保てると思う。いまのまま鬱映画を作り続けては、いずれ「客が呼べない監督」に成り下がってしまうのではないかと心配だ。 「愛と生と死の物語。若い人に、生きることの意味を伝えたい」と熱く語った。 via: asahi.com:鬼才・押井守、次回作を熱く語る - コミミ口コミ むしろ「生きることの意味の無さ」が伝わってしまうような映画だ。べつに「これが生きる意味だ」と示してくれる必要はない。ただ、同じ考えさせるにしても、もっと前向きに考えさせようとは思わなかったのか。対象が「若い人」なら、もう少し親切でもいいだろう。あるいは「死に至る病」を観客と共有したいのだろうか。 作品自体はすごい。すごいから問題なのだが、ともかく作品はすごい。監督は作家としていい仕事をしたと思う。 問題は、コンテンツに対するコンテキスト。作品に対する、その届け方。 作品は社会的な存在だ。作品が社会に影響を与えることもあるし、社会が作品に意味を与えることもある。それゆえ、作品は危険性を認識した上で適切な展示をなされるべき。「スカイ・クロラ」は適切な展示をなされていない。あるいは、これが適切だというのならば、「死にたければ一人で死んでくれ」と言わざるをえない。自殺願望垂れ流し映画には、単館上映が相応しい。 いくら客が呼べる監督だからって、節操なく金儲けに走りすぎでは? (※言うまでもなく、この批判は監督や作品自体へ向けたものではない) つづく ※追記 本文中にて、 押井守監督が「鬱映画の巨匠」として完璧な映画を作る日が来たら、、、恐ろしい。こういう映画を作るなら、アングラに潜ってもらいたい。数十万人にみせるものではないと思うのだ。そして、そのほうが監督の評価も保てると思う。いまのまま鬱映画を作り続けては、いずれ「客が呼べない監督」に成り下がってしまうのではないかと心配だ。 と書いた。しかし、本人は気にしないらしい。というか「自分の作品の客は1万人程度でいいと思っている」そうだ。やはり監督本人は間違っていない。間違っているのは周りの連中だ。 押井は自らを「娯楽作品をつくる商業監督である」と語っているが、一方で「自分の作品の客は1万人程度でいいと思っている」、「1本の映画を100万人が1回観るのも、1万人が100回観るのも同じ」といった発言があることから大衆・万人に受け入れられる作品づくりにはあまり興味がない模様である。また、「自分より年上の人間に向かって作品を作ったことがない」という発言もある。 via: 押井守 - Wikipedia ※追記 ビジネスとしてのアニメ制作と、彼の表現が不釣り合いなのであれば、ひょっとしたら引退するしかないもかもしれないとか勝手に思ったりもする。 via: F's Garage:スカイ・クロラ見た 同感。私としては引退までしなくても、アングラ系インディ作家として長くカルト的人気を保つことはできると思うし、小規模にやればきちんと黒字で回せると思う。

Ponyo: 崖の上のポニョ(4)

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Wednesday, August 13th, 2008

この映画は、初対面で笑顔を見せない人に似ている。 この映画は、挨拶を無視する人に似ている。 この映画は、呼びかけても返事をしない人に似ている。 「崖の上のポニョ」を観て不安になる大人の心理。 それは社会的な約束事(プロトコル)の無視である。 我々は、相手が自分と同じ約束事にしたがって行動することを期待している。 それが裏切られるとき、不安になる。 この不安は、サバイバルに必要な能力であり、進化の結果もたらされたのだと思う。 不安になるのが正常な反応だ。 未開の地で、言葉の通じない、武器を持った原住民に取り囲まれると怖い。 それは、武器が怖いのではない。武器なら街の警官だって持っている。 言葉が通じないから怖いのだ。共通の常識、モラル、約束事がないから怖いのだ。 「崖の上のポニョ」という映画は、そのような約束事から逸脱している。 だから不安になる。 この社会に適応した「まっとうな」大人ほど、不安を感じるかもしれない。 この映画が与える不安とは、そういうことだ。 だから、私は公開直後の批評において、次のように書いた。 この映画を観る上での唯一の注意点。大人の常識で観ないこと。宮崎さん(監督)が五歳の子供に向かって(あるいは五歳の子供に「なって」)「こっちにおいでよ」「一緒に遊ぼうよ」と言ってるのだから、自分も五歳の子供になって「ただ、おもしろがる」ことを心がけて観てほしい。それが、これから観ようとする人への唯一のお願い via: analog | Ponyo: 崖の上のポニョ(1) これは、大人の約束事を捨てて観てほしいという意味だ。 ※「たけくまメモ」の竹熊氏の批評はとても面白く、私も共感している。ポニョ論を深めたい人はぜひ読んでください。 これはすでに多くの人が指摘しているのですが、『崖の上のポニョ』には、こうした作品世界を成立させるうえでの「前提条件のほころび」が、数え切れないくらいに見受けられます。過去にも宮崎アニメには、こうしたつじつまが合わない箇所が確かにあったのですが、はるかに穏当なものでした。『ポニョ』はそれが多すぎて、しかも説明がまったくないので、観客は「あら可愛い」とか「まあ綺麗」だとか考える以前に、不安になって黙ってしまうのです。 via: たけくまメモ : パンダとポニョ(3)

Ponyo: 崖の上のポニョ(3)

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Wednesday, August 13th, 2008

宮崎監督には、そもそも「ドラマのつじつまを合わせる」ことへの興味が最初からないとしか思えません。 via: たけくまメモ : パンダとポニョ(2) しかし今回宮崎監督は、「アニメーションの初源に戻って作る」と制作意図を表明しています。これは、さまざまな解釈が可能な発言だと思いますが、これを俺は 「もう、つじつまとか整合性とか、わしゃ知らんの! 今回は無意識のリミッター全面解除して作っちゃうんでよろしく! 母親が危険運転して事故ってペシャンコになったとしても、どうせこれはアニメなんだから死なないし口から空気入れで膨らませれば元に戻るの! アニメだから魚が半魚人になって人間になってもいいの! 作品がグチャグチャで、バカとか狂人とか思われてもいいの! 理由とかつじつまなんて面白くないの! アニメってそういうものなの! 面白ければわしゃなんでもいいの!」 という意思表示だと解釈しました。ここまで開き直っている人に対して、作品の整合性がムチャクチャじゃないかとか、人として許せないと言って非難するのは、まったくその通りなんですけど、おそらく言っても無駄なのではないかと思います。 via: たけくまメモ : パンダとポニョ(3) 作品がどんなにアバンギャルドで物語のつじつまが合って無くとも、売れる以上は、誰も、何の文句も言うことができないのです。結局俺は、なんで宮崎アニメがここまで売れているのか、その理由を解明することがついにできませんでした。とにかく売れていることは事実であり、この事実の前には、あらゆる批評の言葉は意味を失います。どんなに宮崎アニメの矛盾を指摘したところで、この資本主義社会においては、売れているものが絶対的に正しいわけですから。 もしかすると、若き日に社会主義者であった宮崎駿さんは、あえてわけもなく売れ続けることで、資本主義に対する嫌がらせをしているのかもしれません。 というわけで、「私はやっぱり資本主義がいい」というよい子の皆さんは、『ポニョ』はほどほどにして、『カンフー・パンダ』を見て安心しましょう。 via: たけくまメモ : パンダとポニョ(3) その世界は、大人がふつうに観ると不可解。意味不明。だが、説明しない。誤解を恐れない。批判を気にしない。宮崎監督は、自分の地位や名声に、さほどこだわらないのかもしれない。大人が、大人の目を、これほどまで気にせずに表現できるとは驚きである。それは無私や無心といった言葉で表現してもよいように思われる。 現世的こだわりの無さ。 via: analog | Ponyo: 崖の上のポニョ(2)

Solaris: ソラリス

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Friday, August 1st, 2008

本編(1) 正常な人間とはなんだろう? ひどいこと、下劣なことを一度もしたことがない人間だろうか? その通り。しかし、下劣なことを一度も考えたことがないなんて人間がいるだろうか? いや、ひょっとしたら考えたことさえなくても、十年か三〇年か前にその人間のうちにひそむ何かが勝手に考え、湧き出てきたことくらい、あるんじゃないかな。人間本人のほうはそれから身を守り、忘れてしまい、自分がそれを実行に移さないとわかっているので、それをもう恐れることもないーーーそんなことが。さて、今度はこんなことを想像してみて欲しい。あるとき突然、他の人たちの真っただ中で、昼日中にそれが実体化して肉を備えた姿となって現れ、きみにまとわりつき、それを叩き潰そうとしてもどうにも叩き潰せないーーーそうなったら、どうだろう? それはどんなものだ? pp.117-118 本編(2) もしも彼女がだね・・・・・・いや、もしもこれが醜悪な化け物だったとしたら、どうだろう。その化け物があなたのためにはなんでもするわ、なんて言って、つきまとってきたら? きみは一瞬もためらわないで、その化け物を抹殺しようとするんじゃないのかね? pp.260 本編(3) 確かに、そういうことかもしれない。その場合、やつはまったく・・・・・・ぼくたちのことを踏みつぶし、粉砕しようなんてつもりは全然なかったということになる。あり得ることだ。ただ何という意図もなしに・・・・・・ pp.326 レム本人(1) 宇宙がたんに「銀河系の規模に拡大された地球」だと思うのは間違っている。宇宙は、私たちがいまだ知らない新奇な性質を備えているのではないだろうか。地球人と地球外生物とのあいだに相互理解が成り立つと考えるのは、似ているところがあると想定しているからだが、もし似たところがなかったらどうなるだろうか? レム本人(2) つまり、私が重要だと考えていたのは、ある具体的な文明を描いてみせるというより、むしろ「未知なるもの」をある種の物質的な現象として示すということだったのである。 レム本人(3) 私の信ずるところでは、そして私の知る限りでは、『ソラリス』という本は決して宇宙空間におけるエロスの問題を扱ったものではなかったはずだ。 レム本人(4) SFはほとんどいつも、こんなことを前提としてきた。つまり、人間が出会う「他者」がかりに何らかのゲームをするとしても、人間は遅かれ早かれそのゲームのルールを理解するだろう、というのである。そして、そのルールはたいていの場合、戦争の規則だった。それに対して私はソラリスの海が体現している他者としての存在を擬人化して理解するような道をすべて塞ぎ、コンタクトが人間と人間との間のような形で実現しないようにしたかったのだ。