『赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』という記事では、わざわざ次のように書いたが、それでも残念ながら気を悪くした人がいるようだ。
俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。
まあ、Tumblrで引用された一部分だけを見て反応した人も多いのだろう。そういうものだ。それを批判するつもりもない。ちゃんと原典を読んでくれない人も多いのだろう。
それで感情的な批判をしている人もいて、中身のない罵倒を聞く耳など持たないが、筋の通った反論は傾聴するので、ぜひ筋の通った反論を聴きたいと思う。
それとは別に、主張を誤解している人もいるようだし、ここで補足しておく。
提起した問題は簡単なことだ。「これを喧伝する人は、自分が彼の立場になったとしても堪えられるのか?」という問いだ。
1)この答えがYESなら、恥じることなく喧伝すればいいだろう。(だから、この1に該当する人が腹を立てているとしたら、その理由が分からない。あなたを批判していないのだ。原典を読まずに誤解したケースだろうか)
2)この答えがNOなのに喧伝する人は、筋が通っていない。個人的には「自分に都合のいいように正義を曲げる人」と思える。とはいえ、それも言論の自由であり、尊重するのだが。「お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない」のだから。(わざわざこう書いたのだから、批判や反論はあっていいと思うが、感情的な罵倒をする人は何を考えているのだろうか、その心理状態が、じつに興味深い)
3)答えがNOだが、その引き受けるべき正義について無自覚な人もいるだろう。それを指摘したのが、例の記事では中心的なメッセージだった。これは「説得」だった。(「ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ」)
なお、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」を規制せよ、などとはまったく言っていない。言論の自由だ。私は、むしろ普通の人よりもプライバシーを尊重していないといえるだろう(リバタリアンだし)。だから、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」への批判はプライバシー権の観点ではない。
もちろんグーグル社に対して「ストリートビューでうちの庭の中が見えるのは困る」と抗議するのは自由だし、権利侵害がある場合には修正も必要だろう。しかしグーグルに修正を強制する権利はだれにもない。憲法に定める表現の自由は民主主義が成り立つための絶対条件であり、安易に例外を作ってはいけないのだ。他人の言論を制限しようとする「権利のインフレ」は表現を窒息させ、ウェブを不自由にするだけだ。
via: 「権利のインフレ」が表現を窒息させる
では、プライバシーとは関係ない議論としたら、どういう議論だったかというと、むしろ社会主義者が好むような道徳論、正義論に近い。「もし自分があの人の立場だったら」「立場の交換に堪えられるかどうか」という論法のだ。あくまで法規制などではなく、そういう個々人のモラルの範囲の議論をした。目的は批判ではなく説得だからだ。そういうことをする人を減らしたいと思ったのだ。キリストは「して欲しいことを他人にもしろ」と言ったし、孔子は「して欲しくないことは他人にもするな」と言った。そういうことだ。
以上、『赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』への補足とする。
[...] 追記: analog | 赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記) [...]
ピンバック by analog | 赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ — 4月 16, 2009 @ 7:40 pm
先の記事に感情的に批判した人、特に中二病呼ばわりした人には唖然としました。君子は為さざるあり、というのは真理ですね。
コメント by 福耳 — 4月 16, 2009 @ 10:05 pm
「2)この答えがNOなのに喧伝する人」の一つとして、自分がその立場であれば堪えられないだろうけれど、でも、万が一、そういう立場になったらこういうことが起こるよ、それを有効に止めることはできないよ、そういう人々がいるよ、そういうことにも使えるツールがあるよ、という事実を際立たせることに意味がある、という意識でのreblogはあるでしょう。
その手段として画像までもreblogする必要はないだろうという意見もあるでしょうが、マスコミでもテレビや大手新聞社とゴシップ系週刊誌に提示の仕方に違いがあるように、というか、それ以上に個人の感覚は広く散らばっているのですから「恐ろしい」と知ること、それを身に染むことで防御するしかない気がします。
また、もう一つ、「して欲しいことを他人にもしろ」「して欲しくないことは他人にもするな」は、価値観の共有が前提ですから、あそこまでの「醜態」をさらしてしまう人と自分が同じであるとは思いたくない、という意識、無意識の心理もあったのかもしれませんね。
秋葉原での無差別殺人事件のときも救助に参加した人もいれば、自分を事件の枠外に置いてケータイカメラで撮影していた人々もいました。
異常事態の中で、精神的に弱い人が自分を枠外に置き、同様に枠外にいる人と同じ行動をすることで、精神的トラウマを逃れて安心を確保しようとする、そんなこともあったんじゃないかなと思います。
その他、いじめやバッシング、リンチなどが起こる状況とかを想像するに、そういう意識や心理も理解しがたいものではないです。
なんにしろ、モラルとか道徳というのは精神的に強くないと、知っていても行うことは難しいものですね…。
コメント by Tiger — 4月 17, 2009 @ 10:39 am
小学生の時に自分がやられたら嫌なことはしてはいけないと習いましたが
ゆとり社会というか小学校で英語じゃなくてちゃんと道徳教えてほしいです
頭良くなっても常識ないと使えないですから
コメント by たま — 7月 25, 2009 @ 5:27 pm