地獄への道は善意で敷き詰められているという記事では、「善意」が社会にもたらす悪影響を紹介しました。
そのような問題を解決するために必要なのは、人類の理性です。人類は、帰結主義的な思考によって政治的意志決定をしていかなければなりませんが、それを阻むのが感情・本能です。つまり、理性によって、それらを押さえ込まなければ、人類は感情・本能に従って道を誤ります。
帰結主義(きけつしゅぎ、英語 consequentialism)とは、行為を道徳的に判断する際に、その行為から生じる帰結(結果)を考慮に入れる立場を指す。功利主義は、帰結主義のひとつの立場である。
via: 帰結主義 – Wikipedia
帰結主義的に正しくても、感情的には受け入れがたいというのが「労働者保護の撤廃」だったりします。それにより失業率が低下し、国民の経済厚生が向上するはずなのに。
拒否パターン1:道徳・価値観・倫理的に、受け入れがたい。
拒否パターン2:違和感・恐怖から、受け入れがたい。
前者には、まだ尊重すべき論理があります。しかし、後者の理由による拒否もあるということに気付きました。これは、本当にくだらないことですが。
自転車に乗れない人に似ています。「スピードを出せば安定するんだよ」と言われても、スピードを出すのは怖いから、なかなか乗れるようにならない。本能はその言説・理論を「信じる」ことに抗うからです。それに打ち克つのは理性です。
「ある程度はスピードを出したほうが安全」というのは帰結主義的に正しい言説であるけれど、感情的(本能的)には受け入れがたいわけです。マトリックスのモーフィアスなら「速く動こうと思うな。速いと知れ (Don’t think you are, know you are)」と言うところ。
つまり、「本能的恐怖を克服しなければ自転車に乗れるようにはならない」のですが、それと「労働者を保護するよりも規制緩和によって失業率が低下する」という言説を信じられるかどうかというのは、同じ構図でしょう。
近視眼的な正義が、結果的には大きな社会的不正義を生んでいることに気づくべきだ。
via: 1段階論理の正義 – 池田信夫 blog
本能が司る感情的認知と理性は別物。本能的恐怖感を超えて、帰結主義的に正しい道を選ぶことが出来るかどうか。
この21世紀、我々人類の理性が試されている、といっても過言ではないでしょう。
部族社会で生きてきた日本は、いま否応なくそれを捨てることを迫られている。資本主義は人々の精神的な紐帯を断ち切り、格差を拡大する。ハイエクは、「資本の文明化作用」を肯定したマルクスと同じく、こうした変化を不可避で望ましいものとしたが、本当にそれは人間を幸せにするのだろうか。それ以外の道はないのだろうか。