保守的教育観

このエントリーを含むはてなブックマーク November 23rd, 2008 | posted in education, society |

そもそも「教育」とは何か。親・大人が子に「与える」ものだ。「教育」は典型的にパターナリズムの発想であり、リバタリアンの私には受け入れられない。もっと学習者の自主性を重んじた、能動的学習をサポートするプラットフォームが必要だ。将来の我が子にとっては。

そもそも学習意欲の無い子供に「教育」を与えようというのが間違いだ。先に教育ありきではなく、まず学習意欲を与えるべきだ。子供に学習意欲を与えるのは誰か、というと親だ。親が学習意欲を持たないならば、子も学習意欲を持たない。要するに親の問題だ。

analog | 子供に勉強しろというならば

子供に対して、あらゆる疑問に答えてくれる知恵の存在を、実際に見せてやればいい。子供の好奇心に答え続ければいい。学問への興味が生まれるのは時間の問題だろう。

子供に勉強しろという前に、黙ってあなたが勉強すればいい。

本当に学ぶ意欲のある子供にとっては、「できない子」にあわせる学校教育のペースは遅すぎる。私も教科書は与えられた直後に読んでしまって授業は退屈していた。授業を「読み聞かせる」だけの教育になんの意味がある。自宅で独習するのと変わらない。

教師が全人格をかけて生徒と議論するならば教室という場に意味はあるが、果たして、そのレベルの教師が、どれほどいるというのだ?

これについては教師から「学習指導要領のせいだ」という弁解も聞こえてきそうだ。たしかに、私も教育行政には失望している。ただ、教師に対する失望もある。第一に、教師以外の職業を知らない。しかし、子供のほとんどは教師以外の職業に就く。第二に、教師は金(貨幣)・経済に対する理解が乏しい。しかし、子供のほとんどが将来つく仕事は経済活動であり、そこで金を稼ぐことは善であるはずだ。ゆがんだ価値観によって金儲けの葛藤に苦しむ人間をつくり出す罪は深い。(教師も実際には仕事で金を稼いでいるのであって、あたかもそうではないかのように考えるのは、不健全である)

下記の言説に同感である。

Libertarianism@Japan: Unlearn that and Learn this

教育システムはほぼ完全に左派に簒奪されており、自由への脅威の最大要因となっているのは間違いない。
政府に対する信頼と権力への追従、公益なる概念への無批判の追従、全体主義道徳の刷り込みと、ありとあらゆる面で、学校システムは国民を従順で愚かな奴隷にすることが、その目的だ。
教育システムは社会的に無価値どころか巨大なマイナスを作り出しているのである。高度成長期にはそういう人間が社会的に大量にいたが情報社会では違うと言われ続けてきたが、私の印象では、この傾向は前より強まっている気がする。
そして現状では全ての人間が学校教育という洗脳過程を経て社会に出ることになる。

そのため、どこかで学校教育をUnlearnする必要が必ずある。
だが、Unlearningというのは、かなり大変なことだ。
子供の頃からすり込まれた信念、偏見は消しがたい。Unlearningには、過去に投入した時間や努力のサンクコストを捨てる努力が必要だ。とくに歳をとればとるほどそれは心理的に厳しくなるだろう。そもそも他の皆と同じようなことを思って感じていることが大衆には居心地が良くリスクが少ないのだ。特に全体主義社会では、それが社会常識ともなる。

このように学校教師に期待していない私だが、「いかに現状の教育制度に期待できないか」をぶつくさ言ってもしかたない。リバタリアンらしく社会の問題も自分の問題の範囲については自分で解決する。政府や政治家に頼ったりしない。自主独立精神で。

私は将来の自分の子供を自分で教育する。正確には「教育」ではない。「学ぶことは生きることであるという人生観」を伝承するだけだ。学習のエンジンに点火するだけでいい。

人が生きるために学ぶのは、能動的な学びでなければ意味はないのだから。

なお、学校で受けた日教組的洗脳は、その日のうちにunlearningすればいい。そして、なるべく早く「世の中には一つの物事について複数の見方がある」ということを理解させればいい。誰かの考えを鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えること。つまり哲学的思考だ。

親の「教育」はこれで終わり。すべての学びに通じる原則、これこそ親が与えるべき最大の「教育」であって、あとのすべては本人が「学習」すべき。与えるべきは教育・知識ではなく、学ぶことの意味・必要性・姿勢だ。

結局は親の人生哲学、全人格が問われる。教育問題は社会問題でもあるが、個人で解決できる問題でもある。

kurakenyaの日記 2008-10-26 コンドルセと人間の無限可塑性

小生は、人間の理性的な理解の可能性を信じるという意味においては左翼的だが、

だからといって無限の教育や訓練の可能性を認めるというわけではないから、

この意味では保守的なのだろう。難しいものだ。

皆さんはどうお考えだろうか?

私は上記のように考えた。その根底には「教育はパターナリズムの聖域か?」という問いがある。国民皆学とは義務化して個々人から自由を奪ってまで達成すべき目標なのだろうか?

社会全員の教育水準を上げることが社会全体の福祉に繋がるはずだ、という言説に私も同意する。だから、教育をすべて自己責任で、自己費用で行うべきとは思わない。ただ、その目的(国民皆学)を達するための手段として、強制・義務教育は唯一の解なのだろうか?

人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

これは『学問のすゝめ』の書き出しである。これが書かれたのは学制公布の年だ。当時はこういう本が出されたくらい、「学問に何の価値があるのか」を誰も知らなかった。だから啓蒙家福沢諭吉は『学問のすゝめ』として「勉強するといいことがあるぞ」と説いたのだ。

しかし、現代の学歴社会は、すでに強いインセンティブがあることのあらわれだ。インセンティブがあるから、強制しなくても人はそれをやろうとするはずだ。あとは障害を取り除けばいい。そこで学費、教材費、給食費などの免除といった政策は費用対効果の面で有力かもしれない。しかし、それと「教育の義務化」に直接の関係は無いはずだ。

現状では、脱義務化しても、ほぼ100%が就学するであろう。むしろ、1%以下の天才に、学校教育という無駄な時間を使わせないメリットが産まれる。15歳以前から才能が見えている天才は、その道で活躍させればいいのであって、つまらない義務教育で時間を浪費させるべきではない。

この点で、教育の自由化、つまり義務教育の解体を考えてもよいと思う。どうせ、解体したところで、学歴信奉者はすぐには減らない。教育の場が崩壊したりはしないだろう。むしろ、教育産業の自由化で、多様な教育イノベーションの余地が産まれるはずだ。

長期的には、「教育」をとことんまで解体し、「学習」で置き換えるべきだと考える。そこで多様なニーズに応えるために市場メカニズムが機能するはずだ。大学で単位を選ぶように初等教育もア・ラ・カルトにすればよく、そのニーズに応える企業はベネッセ、公文、七田など、すでに存在する。

もはや公教育の役割は無いといっても過言ではない。

共通のカリキュラムといったものが解体されれば、こんどは学歴の価値も薄れてくる。「どこの大学に入ったか/を出たか」ではなく「何を学んだか」が重視される。MIT Coursewareのようなe-learningと、1単位からの受講、単位認定というビジネスに大学が乗り出すことで、上記のような目的で「単位」というスキル単位、スキル免状が普及する。学制も、一つの大学に拘らず、講師単位で、どの学問をどの講師から学ぶかを選ぶようになる。

企業の採用試験においては、すべての単位について、採点・評価も含む「履修履歴書」を企業に提出すればよい。企業は、その応募者がどのような学問を、どの程度深く勉強し、どの程度身につけてきたのか評価できる。

これにより、企業の採用試験も変わる。根拠があやふやで非科学的で高コストな採用試験を放棄して、もっと根拠に基づいた低コストな採用手段で置き換え始めるだろう。もちろん面接や自社製筆記試験を併用するとしても、この詳細な履修記録書を活用することで、採用コストの削減、採用ミスマッチの低減に大きな改善が見込める。

全体として、産業界の要請を受けて、教育が市場メカニズムにさらされ、学習者も自らの人材価値向上のために真剣に選択して学習する、という点で、テンションが保たれ、モラルハザードは起きにくいはずだ。

脱落者は、この変化についていけない既存業者(公務員含む)だが、べつに脱落してもらって構わない。そんな連中よりも新規参入者のほうが優秀な教育ビジネスを展開するだろうし、そこでも残って戦える既存業者は優秀なはずだ。

もし私が教育行政を預かったら、このようなグランドデザインにもとづき、まずは初等教育を義務づける法律の改正から着手する。そこに代替案という隙間を作り、企業の新規参入を促す。もちろん参入の障害となる規制は撤廃する。既存業者の直接的な不利益となる改革は最後に回す。新規参入者が成功し、教育の民営化が可能であると実証されてからでよい。

藤原和博氏や渡邉美樹氏らに続いて、今度はもっと「ビジネス」として参入する人・企業が増えると教育は多様になり、学習者・親には選択の自由が与えられ、結果として国家の教育水準が高まるのではないか。ここでいう教育とは単に国際学力テストで上位にいく、といったことではなく、産業の国際競争力で上位にいくことであり、そのためのイノベーション創出力につながる学力ということだ。

結局、教育(あえてここでは「学習」ではなく「教育」を使う)の達成度合いは、「答えのない問題に取り組む力」をどれだけ伸ばしたかで測られるべきだ。それは直接的に計量できないが、結果としては産業の成長力などの形で現れてくるはずだし、そうならなければ教育は形骸化して役立ってないということだ。

IT革命などのルール変化においては従来の勝ちパターンが通用しなくなる。そこでは自分の頭で考えるしかない。経験に頼るのも限界がある。だから、変化の激しい競争環境においては、学力の差が重要になってくる。そこでは教科書を記憶して、与えられた問題を解く、といった能力は役立たない。自分で問題を発見・設定し、自分で答えを見つける能力が必要になる。つまり「自分の頭で考える力」である。

だから、学力は新産業創出力につながると考える。日本においては他の問題(リスクマネーの流通)などもあるが、長期的に重要なのは学力だ。結局は人間の頭よりレバレッジの効く資源など存在しないのだ。

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