過剰な「選択の自由」と、広告の役割
広告が消費の納得感を生み出せるなら、自由の刑に処された消費者は救われる。
ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね): 糸井重里さんの重さ
個人によって差があるのかもしれませんが、いま支持されているのは、このような広告ではないのではないか、という感覚が私にはあります。Softbank のCMがいま支持されているのは、きっと、その古典的な広告らしさなのではないかと思います。資生堂のTSUBAKIもそう。物量戦がものを言うという、中堅広告会社にとっては腹立たしい状況も含めて、いま、一度終わった広告は、また広告に戻ろうとしている。そんな気がします。
そうかもしれません。それが広告の、唯一の「あるべき姿」なのかな、というと、そうではない、とお感じになっているはず。だからこその、このエントリであるはず。
広告の一つの機能は、単純な価格・性能競争のなかでのシェア拡大手段です。これは「誰にでもできること」です。工夫よりも物量投下。象徴的に言えば20世紀の競争ルール。あるいは「不足した社会での競争」といえる。
ただ、物があふれた世の中で、みんな「自分にふさわしいもの」を知りたい。「同じ」は嫌だ。「違う」ことに価値がある。すべてを高価なもので揃えたいわけじゃない。全部ではないけれど、こだわりたい。こだわりのない物は、みんなと同じでいいけれど、こだわりは、「違い」にある。
でも、「自分にふさわしいもの」が分からない。すでにこだわってる物や、すでに欲しいものは分かる。でも、必要になって、選ぼうとして、自分が詳しくないことに気付く。どれも似たり寄ったりで、自分にふさわしいものには見えない。
そんなとき、必要なのは、「みんなこれを買ってますよ」という広告ではない。「みんなが買ってるわけじゃないけど、私たちはこれが良いと思ってるんですが、どうですか?」という広告が必要。「こういうものもありますよ」という提案。ブランドの旗を立てること。
我々は、さしあたり生活に必要なものは「無印良品」ですべて揃ってしまうような、物の過剰な世の中で、何を選んでいいのか分からなくなっている。
だから、メガブランド広告の対極に、ひっそりと、しかし、しっかりとした「ブランドの旗を立てる」ような志の高い広告があって欲しい。それは、DoCoMo2.0やTSUBAKIのような物量投下ではなく、「刺さる人には刺さる」というもの。広告の規模の問題ではないはず。
「自分で選んだ」という実感。「自分の感性で選んだ」というライフスタイルの一致感。「自分だけが知っている」という満足感。
そもそも自由な選択に正解などない。必要なのは納得感。広告は消費者の納得感を生み出すことができる。それは幸福感につながる。広告は自由の刑に処された消費者の迷いを少しだけ減らしてくれる。
納得して買いたい。過剰な世の中で、このギャップは大きくなる一方だ。それを埋めるのに広告は役立つ。
池田信夫『ハイエク』P.199
要するに今、われわれは自由の過剰な時代で、何を選んでいいのかわからないのである。だから重要なのは「選択の自由」よりも、無意味な情報や有害な情報を排除して選択の幅を狭めることだ。グーグルのテキスト検索は、そうした情報選択の原始的な段階であり、今後は意味を理解して情報を選択したり、有害な情報が引き起こす紛争を処理したりする仕事への需要が増えるだろう。
追記:
広告を突き詰めると、そもそも「一本立った」商品のほうが、広告しやすいことになる。もともと「何の変哲もない」ような商品をブランドにしていくことは難しい。(それこそ物量投下しかない)
商品自体が「立って」いれば、広告は、その本質を、見える形にして、見せてあげればいい。刺身のように、余計な味付けは不要。
だから、広告人のジレンマは「お題」がすでに与えられるところから始まる。広告人は、その仕事を、商品開発まで広げていけばいい。価値連鎖の後方統合。
「カスタマー・インサイト」と日常的に言い、もっともそれについて詳しいはずの業界人は、商品企画でその能力を証明してもいい。例えば、佐藤可士和氏は、それをやり出したし、ほかにも多くの「広告人」がそういうことをやっているはず。
過去の[デザイン特講]:Design Channel | Design Association NPO
「なぜ?なぜ?なぜ?」のゼロベース思考で仕事を突き詰めていく人は、どうやら規定の職業の枠を飛び出しがちだ。


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