マルクス経済学ではボランティアを語れない
前提が違っていても結論がたまたま一致しているに過ぎない。
ただ、こうした活動で大事なことは、ボランティアをしてはいけないということです。ボランティア活動は、社会コストを下げるには、最も効果のある方法です。が、ここがむずかしいところ。仕事がボランティア活動で担われれば担われるほど、その仕事はますます「お金を払う必要のない仕事」になってしまうんです。
(略)
一方、ボランティアの人たちは、やがて息切れします。働くことは余力や時間を注ぎ込むことですから、タダで働くとその人の「時間資源」はどんどんなくなります。最後はやっぱり、対価のある活動に移らずにはすみません。つまり、その活動が長続きするためには、「実際に働いた人が対価をもらうこと」がものすごく大事なんです。でも、よく考えると、それって当然ですよね。経済学でも、お金は「労働の対価」。これこそ、基本中の基本です。
そういう労働価値説を「基本中の基本」とするのはマルクス経済学くらいだろう。
限界革命
1870年代にウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ、カール・メンガー、レオン・ワルラスの3人の経済学者が、ほぼ同時に、且つ独立に限界効用理論に基づく経済学の体系を樹立し、新古典派経済学の創始者となった。以後、マルクス経済学以外の流派が労働価値説を自らの理論の核とすることはほとんどなくなった。そして、イアン・スティードマンをはじめとするネオ・リカーディアンによる労働価値説不要論が有名になった1970年代後半以降は、労働価値説を放棄するマルクス経済学者も出てきている。
ちなみに
働くことは余力や時間を注ぎ込むことですから、タダで働くとその人の「時間資源」はどんどんなくなります。最後はやっぱり、対価のある活動に移らずにはすみません。
これは、限界非効用の概念だろう。
労働の供給において限界非効用が問題になるのは、労働供給のために休息や余暇のための時間が減少し、休息や余暇から得られる満足感が犠牲にされると考えられるからである。したがって、労働の限界非効用は、余暇の限界効用に負符号をつけたものと考えることができる。
マルクス経済学では、労働における自己実現を妨げるものとして、ラテン語のalienato(他人のものにする)に由来する疎外された労働が語られている。
『思いやりはお金に換算できる!?』の著者である有路氏は、基本的にマルクス経済学者だと思う。そのうえで、その後の経済学も取り入れているようだ。しかし、前提が違う理論を両立させようというところに、矛盾が生まれがちである。
疎外について
近代的・私的所有制度が普及し、資本主義市場経済が形成されるにつれ、人間と自然が分離し、資本・土地・労働力などに転化する。それに対応し本源的共同体も分離し、人間は資本家・地主・賃金労働者などに転化する。同時に人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって働く喜びを失わせ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。
マルクス自身が生きた時代の問題と、それへの取り組みとして、このような理論には価値があったかもしれない。その結果として、労働者の権利が非常に強くなっている。むしろ、強くなり過ぎて、経済の効率が失われているほどだ。
冒頭の議論にもどると、ボランティアをしてはいけない理由として、
仕事がボランティア活動で担われれば担われるほど、その仕事はますます「お金を払う必要のない仕事」になってしまうんです。
というのは同意する。供給過多となり価格が下がる。
しかし、その議論に、さりげなく労働価値説を忍び込ませるのはよくない。まったく関係ないからだ。
そもそも、ボランティアというのは「志願兵」のことである。誰から頼まれたわけでもないし、それをしないと生活できないわけでもない。無報酬なのだから、生活費を稼ぐ手段としての労働であるわけがない。
本人が好きこのんでやっているのだ。
ここに「疎外」なんてまったく存在しない。あるのは「何かのために働く喜び」であって、疎外感とは正反対である。働けば働くほど喜びになるのだろう。(そこに限界があるのか、あるいは中毒があるのかは、場合によるだろう)
本質的に「働く喜びが失われている」という前提から出発しているマルクス経済学で、「無報酬で働く喜びを得ている」ようなボランティアを語るのは、控えめに言って不適切である。
なぜボランティアは良くないか。それは持続可能性の問題だ。無償で無限に働き続けることは難しい。稀少な資源の投入なしに成果が得られる事はない。フリーランチはないのだ。
There Ain’t No Such Thing As A Free Lunch - Wikipedia, the free encyclopedia
This phrase and book are popular with libertarians and the phrase is often seen in economics textbooks.
では、どうすれば可能か。負担が小さければ可能になるし、あるいは収益があれば可能だ。企業に例えれば、黒字であること。国家に例えれば、プライマリ・バランスが黒字であること。健全で持続可能な活動は、そうでなければならない。


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