デザインを「作品」と呼ぶむずがゆさ
アーティストくずれのデザイナは市場から退場してくれ。デザインはアートじゃないんだ。クライアントはパトロンじゃないんだ。ユーザーはオーディエンスじゃないんだ。デザインを「作品」と呼ばないでくれ、むずがゆい。
自分を表現する別の手段を見つけたい。デザインとは、忌むべき表現形式だ。(フィリップ・スタルク)
これが、デザインを「作品」と呼ぶ「むずがゆさ」の正体だ。
デザインは自己表現手段ではないのだ。
スタルクほどの優れたデザイナは、いち早くそれに気付いて自ら退場した。ところが、気付かぬ凡夫の多いこと。それどころか「作品」と呼ぶことに何の違和感ももたないデザイナも多い。そういう感性こそデザイナには必要だろうに。
もちろん「作品」と呼べるほど精魂込めたのかもしれない、言葉狩りをするつもりもない、呼びたければ「作品」と呼べばよい。
問題にしているのは作家気取り、アーティストくずれの、腐った表現欲だ。
正しくは「作品」ではなく「製品」や「商品」だ。クライアントの期待に応え、ユーザを幸福にするのがデザインだ。ユーザがデザイナ自身の場合もあるが、要するに誰かに奉仕するのがデザインだ。役に立たなきゃ無意味なのがデザインだ。
デザイナよ、忘れていないか、デザインとは本質的に経済活動であることを。
原始人が斧(おの)や鏃(矢尻、やじり)の形を工夫したのは原始的なデザインの発祥だという人もあるが、それとて経済と無縁ではない。なぜ工夫したのか。それは限られた資源を最大に活かすためだ。狩猟や採集の時代に、食料という資源を必要なだけ入手することは難しかった。つまり食料という資源はそこら中にあるのに、食用として活用できていなかった、だから狩猟や採集の効率を上げるために工夫したのだ。
【投入】資源・費用・手間・時間
【成果】価値・価格・効用・便益
より少ない人数で、より少ない時間で、より少ない危険で、より多くの獲物をしとめること。そのために狩猟の道具を工夫した。
投入と成果の比を最大にすること、効率の最大化、これが工夫の本質である。
稀少な資源を有効に活用し、その価値を最大限に発揮させて、人間の感じる効用を最大化すること。これは経済学の目的であるが、こと道具や行為に関して言えばデザインの目的でもある。どちらも同じく工夫の問題であり、レイヤーが異なるだけだ。経済という包括的で抽象的な概念に対して、デザインは即物的で具体的な概念だ。デザインは経済の範疇にある。そこから一ミリもはみ出すことはできない。
デザインとは、作品ではなく価値を生み出すことである。デザイナという職業が社会において占める役割はこれである。人間の想像力によって、モノやサービスの価値を高めることである。そこを忘れてはならない。
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※ちなみに私の座右の銘は「経済は文化の僕である(福武總一郎)」だ。


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