物語の設計図

このエントリーを含むはてなブックマーク September 24th, 2008 | posted in literature, book |

村上龍が『五分後の世界』という小説の執筆において体験したことは、高橋源一郎の言う「小説をつかまえた瞬間」であろう。むしろ、それまで村上がそういう体験をしていなかったということに驚く。何かが降りてくることなしに、自分の力だけで書き続けていたことに。

世界的音楽家ワカマツが語る「音楽が出現する瞬間」

よく父が言っていた、良いトンネルは人間が掘ったものじゃなくて、ずっと前からそこにあったように見える、ボクはそういう音楽を作りたかった、わかりやすいのはモーツァルトだよね、それも二十番から二十七番までのピアノ・コンチェルトだ、余分なものも、不足もない、別にモーツァルトが作ったわけじゃなくて、ただモーツァルトはどこからか捜してきただけという感じがする

非常に科学的な、ヨーロッパそのものという人で、自分はモノを作ったり表現したりしているわけではなくて、映像を組み合わせているだけだと言っていた、組み合わせなんだ、と、とてもわかりやすいね、ボクも同感だ

組み合わせ方なら無限に近く存在するだろう、モーツァルトとは別の組み合わせだってあるかも知れない、シンプルな組み合わせから恐る恐る出発して、少しずつその組み合わせが複雑になっていく、アイデアが出るとか発想がひらめくとかそんなものじゃない

仮定法と消去法で数学を解くように何かを明確にしていく、そういう作業の時には快感も興奮もないんだよ、M16で敵を狙撃する方が一万倍面白い、そうやって、ある時がやってくる、信じられない瞬間だ、まるでそれまで波一つ立たなかった静かな湖から恐竜が現れるように、音楽が出現する、つくりあげるとかできあがるのではない、突然、目の前に、ずっと以前からあったものがたまたま姿を現すというように、出現するんだ、あとはマシンになって形を与えてあげるだけでいい、すごいのはその出現の瞬間だけだ、スリルがある、ボクもれっきとした兵士なんだけどね、M16でもAKでもいい、フルオートで撃って相手の頭がメロンみたいに吹き飛ぶ時って何かあるよね、すごいものがある、あれよりすごいものはそう多くはないね、でも、その、出現してくる瞬間っていうのはスリリングだよ、いい勝負かも知れないな、戦争と

p.187

あとがき

途中、今までにない体験があった、それがあまりにスリリングだったので、ワカマツの台詞として本文でも使った。約半分まで進んだ時に、突然「物語の設計図」とでも言うべき三次元のパース画のようなものが出現した。「作る」のではなく、それまで何もなかった湖から恐竜が現れるように、ずっと以前からあって単に見えなかっただけだという風に「設計図」が、頭の中ではなく、現前に、見えるものとして、出現した。その後はマシンになって書いた。間違えたり、余分なものや不足なものがある時は、「違うよ」と「設計図」から指摘された。「物語の設計図」の奴隷になっていたわけではもちろんない。ただし、主人でもなかった。

高橋源一郎の「小説教室」

小説は書くものじゃない。つかまえるものだ。

analog | Writing School: 一億三千万人のための小説教室

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