教養は武器になる

このエントリーを含むはてなブックマーク September 22nd, 2008 | posted in philosophy, society |

教養を得る努力は実践に役立つ。

10年前は教養の価値を知らなかったが、ようやく分かってきた。弄するための知識ではなく、生きるための知恵として学ぶならば、教養は武器になる。

なんというか、教育政策への不満が出てきた。初等教育から生涯学習まで一環すべきテーマ。

文学、哲学、歴史を学ぶ意味を軽く観ていた私のようなヘタレ理系学生にこそ人文学、教養の必要性を気付かせる、それが教育制度に含まれているべき。

関心を持ったことしか学ばなくてよい、という教育政策なら、そもそも義務教育など必要ない。

私には、教養がなかったから、仕事に、生活に、教養を活かすことができるとは知らなかった。それは、教養に価値がなかったのではなく、教養の価値を知らなかったということだ。知らないから価値にも気付かない、といった知識を教えるために義務教育はあるはずだ。

知識として教える限界はある。自分で学び、考え、身につけるしかない。ただ、その必要性に気付かせるのは、義務教育の役目だ。

いわゆる自然科学の学習は、先人が積み上げてきた研究の、結果だけを学ぶことになる。それは理にかなっている。もはや天動説を学ぶ必要はない。

だが、文学、哲学、歴史は、そういうものではない。二千年前の人、百年前の人が、どのように考え、生きたか、そのとき自分ならどうしたか、と考えることだ。地動説より先に天動説があったのは、それが人間の実感に近いからだ。そしてキリスト教とも矛盾しないからだ。そういうことを理解しないまま、先に知識として地動説を習って、そういうものかと思ってしまう。これは教養から遠い。知識はあるが、自分で考える力は無い。頭でっかちということだ。(なお、天動説についてきちんと考えることは、科学の進歩が哲学や宗教を変化させてきたという関係を考えることにつながる)

自然科学の研究が客観的事実や論証の積み重ねであるのに対して、人間の賢さとは極めて主観的な体験である。人間が世代を超えて培える賢さなどというものは無いだろう。主観的体験を遺すことはできない。人はそれぞれの人生のなかで、それぞれ努力して賢くなるしかない。賢さは一世限りのものだ。

先人の残した宝石のような言葉がある。我考える、故に我あり。人間は考える葦である。そういう言葉を知ることが教養なのではない。我々は、彼らと同じ深みにおいてそれらの言葉を理解しているだろうか。

ただ単に現代に生れたという理由で、誰も彼もが、殆ど意味のない優越感を抱いて、過去を見はるかしております

小林秀雄「歴史と文学」より

教養とは知識ではなく体験である。思索の追体験である。思考力の涵養である。自分自身が処すべき問題に対して、自分の頭で考える力である。つまり人生の実践に役立つ。

そういった知恵を子供に与えるのは、親の、大人の、役割であると思う。

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