Hopelessful: 無力感と絶望と希望と
「スカイ・クロラ」と「希望の国のエクソダス」に見る「希望」のかたち。
この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。
…
でも歴史的に考えてみると、それは当たり前だし、戦争のあとの廃墟の時代のように、希望だけがあるという時代よりはましだと思います。九〇年代、ぼくらが育ってきた時代ですが、バブルの反省だけがあって、誰もが自信をなくしていて、それでいて基本的には何も変わらなかった。今、考えてみると、ということですが、僕らはそういう大人の社会の優柔不断な考え方ややり方の犠牲になったのではないかと思います。
愛情とか欲望とか宗教とか、あるいは食料や水や医薬品や車や飛行機や電気製品、また道路や橋や空港や港湾施設や上下水道施設など、生きていくために必要なものがとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどのバカでない限り、中学生でそういうことを考えない人間はいなかったと思います。『希望の国のエクソダス』p.314-315
今、映画監督として何を作るべきか。私は、今を生きる若い人たちに向けて、何かを言ってあげたいという思いを、強く抱くようになりました。
彼らの生きるこの国には、飢餓も、革命も、戦争もありません。衣食住に困らず、多くの人が、天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました。しかし、裏を返せば、それはとても辛いことなのではないか──と思うのです。望んで天国に逝った男が数日で飽きてしまった、という寓話がありますが、欲しかったものを目の前にした瞬間、そのものの本質が立ち現れる。人間とは、贅沢なものです。
この映画は、主人公のモノローグと共にクライマックスを迎えます。
それでも……昨日と今日は違う 今日と明日も きっと違うだろう いつも通る道でも 違うところを踏んで歩くことが出来る いつも通る道だからって 景色は同じじゃない それだけではいけないのか それだけのことだから いけないのか これが、この映画のテーマであり、若い人たちに伝えたいこと。
たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う。木々のざわめきや、風のにおい、隣にいる誰かのぬくもり。ささやかだけれど、確かに感じる事の出来る事を信じて生きてゆく──。そうやって世界を見れば、僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない。同じ日々の繰り返しでも、見える風景は違う。その事を大事にして、過酷な現代を生きてゆこう。
僕はこの映画を通して、今を生きる若者達に、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな「真実の希望」を伝えたいのです。
村上龍『希望の国のエクソダス』で語られる「希望」は真に迫る。それは覚悟と決断と実行により獲得される「希望」だ。もちろん、この小説で示される希望のかたちは創作に過ぎず、これが実現するかどうかなど問題ではない。希望とは自らの手で未来を切り開く過程にこそあるのかもしれないと思った。私はこの小説を読んでわくわくした。現実にこんなふうに閉塞感が打開され、未来のビジョンが示されたらどうだろう。しかも自分がそれに貢献できたら。そう思うとゾクゾクした。自己効力感。これこそが「希望」だ。
一方、「スカイ・クロラ」はどうか。監督は若者へ希望を語ったと言う。しかし、私には押井守が語る「希望」が分からなかった。私に分かったのは、「押井守は希望がないと思っていて、それについて観客は自分で考え、悩むべきだと考えているようだ」ということだった。厭世的で暗澹たる問題提起である。無力感。希望の何かが示されたわけではない。
たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う。木々のざわめきや、風のにおい、隣にいる誰かのぬくもり。ささやかだけれど、確かに感じる事の出来る事を信じて生きてゆく──。そうやって世界を見れば、僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない。同じ日々の繰り返しでも、見える風景は違う。その事を大事にして、過酷な現代を生きてゆこう。
これのどこが「希望」なのだ?
余命宣告された人間が、残りの時間をどう「生きる」かを考える、そんな映画のメッセージにふさわしい。それはたしかに「希望」の一種ではあるが、未来を生きる若者へ向けた「希望」ではない。少年、若者が「老成」してしまっている社会の閉塞感を「希望がない」と問題にしているのだろう。ならば、現状肯定的で受動的で「気の持ちよう」でなんとかしようという「希望」など、否定すべき対象であってもビジョンにはなりえない(※)。無力感からくるニヒリズムでしかない。
この閉塞した社会に必要なのは「自分たちには世界を変える力がある」「自分たちで世界を変えよう」という内容の「希望」だ。
(※仏教、禅の「悟り」に通じる点があると思う。全面的に否定するものでもない。ただ、未来を生きる若者に対して提示すべき希望ではないというだけだ)
むしろ「生きることの意味の無さ」が伝わってしまうような映画だ。べつに「これが生きる意味だ」と示してくれる必要はない。ただ、同じ考えさせるにしても、もっと前向きに考えさせようとは思わなかったのか。対象が「若い人」なら、もう少し親切でもいいだろう。あるいは「死に至る病」を観客と共有したいのだろうか。
若者に示すべきは「自己効力感」だ。自分の手で未来を変えることができるというビジョン。それこそが希望だ。
現代日本に希望が不足していることなど、言われなくても、よほどのバカでもない限り分かっているのだ。問題提起だけで終わらないで欲しい。希望の形を示せとは言わない。たかが映画にそんな期待はしない。ただ、希望に向かって必死に生きる主人公の格闘を、前向きに描いて欲しい。希望の形は様々だが「前向きに生きる」という一点は共通するだろう。
勝てないと分かっているティーチャーに挑むことが「希望」の象徴として描かれているのだろうか。それはある種の哲学的、文学的な表現としては成立するとは思うが、「今を生きる若者達に、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな『真実の希望』を伝えたい(※押井守発言)」という意図ならば、病的に倒錯した表現だ。
問題は、「勝てないと分かっている相手に挑むこと」が「前向きな希望」として提示されているのか、という点だ。「挑む」という行動だけを観れば「前向き」であるかのように見えてしまうが、「勝てないと分かっている」ならば、それは「無力感」そのものである。はっきりと「自殺」だ。あるいは、「勝てるかもしれない」と少しでも考えていたとするならば、これは「自己効力感」といえそうだが、しかし、その芽をすかさず摘み取る展開(※)は、やはり病的に倒錯していると思う。
(※一方で、その余りにもあっさりした幕引きは、ネガティブなカタルシスをもたらす芸術的表現としては秀逸だとも思う。この点で、私はこの作品そのものについて否定的ではない)
観客は嫌と言うほど出口のない苦悩を味わう。劇場を出るときには気を病んでしまう人もいるだろう。そういう作品として良くできているからだ。あらゆる意味で救いがない世界。出口のない迷路。現代病。サルトル的苦悩。
鬱映画としては良くできている。監督が「現代の絶望を表現した」と言えば拍手しよう。その意図は完璧に実現されている。一方で、監督の意図が「若者へ希望を語る」ことだとしたら、かなり失敗していると思う。
「希望」の提示が倒錯した表現になる、それ自体が深刻な現代病の症状であるようにも思う。
現代に必要な「希望」は、もっと率直な「希望」だ。


2 Trackback(s)