Archive for June, 2008

Thought: 考えるヒント

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Sunday, June 8th, 2008

『考えるヒント』 小林 秀雄著 福沢諭吉 太平の世は、考える必要を奪う。過渡期ではない時代などない。平時にあって有事を忘れるべからず。明治の激動に生きた思想家は要求する。考えろ、と。 過渡期とは言葉ではない。(略)自らが、めいめいの工夫によって処すべき困難な実相である。処すべき実相を答案の容易ある問題にすり代えてはならぬ。過渡期は外に在る論議の対象ではない。「一身にしてニ生を経る」君自身の内的な経験そのものである。これが福沢の説いた「私立」の本義であり、彼の啓蒙が目指したものだ。これは難しい事であった。今日ではもう易しい事になったと誰に言えよう。過渡期でない歴史はない。 「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は「私立」の内を腐らせる。福沢は、このことに気附いていた日本最初の思想家である。 言葉 言葉は、考える道具である。ただ、言葉が大手を振って偉そうな顔をし過ぎている。言葉は方便に過ぎない。ある言葉から想起されるものは、人によって微妙に異なる。言葉による意思疎通の限界がここにある。言葉が万能であるかのような時代、意思疎通や共感とは言葉だけでないことを忘れずにいたい。阿吽の呼吸で通じ合う老夫婦に学びたい。 姿は似せがたく、意は似せ易し。言葉は、先ず似せ易い意があって、生まれたのではない。誰が悲しみを先ず理解してから泣くだろう。先ず動作としての言葉が現れたのである。動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。生活するとは、人々がこの似せ難い動作を、知らず識らずのうちに、限りなく繰り返す事だ。似せ難い動作を、自ら似せ、人とも互いに似せ合おうとする努力を、知らず識らずのうちに幾度となく繰り返す事だ。その結果、そこから似せ易い意が派生するに至った。これは極めて考え易い道理だ。実際、子供はそういう経験から言葉を得ている。言葉に習熟して了った大人が、この事実に迂闊になるだけだ。 ネヴァ河 作家は、作中人物を、心の中で生きてみるものだ。作中人物に命を与えるものは、観察力ではない。愛情あるいは情緒と呼んでいい精神の力である。これは、現代の小説家たちには、非常に困難な道になってしまっているが、この作者が乗越えているのは、その困難なのである。 自分のことを書きなさい。ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて。 引用:analog | Writing School: 一億三千万人のための小説教室

Writing School: 一億三千万人のための小説教室

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Sunday, June 8th, 2008

『一億三千万人のための小説教室』 高橋 源一郎著 ■何を書くか 自分にしか書けない小説とは何か。それは、自分にしか見えない世界の見え方である。自分にしか見えない世界の見え方とは、自分の中に見つけるしかない。自分がよく知っていることを書くしかない。つまり、まずは自分の中に小説のモチーフを見つけること。これが小説を書く前の準備である。 小説は書くものじゃない。つかまえるものだ。 ■感性を養う いろいろな文章を読む。肯定的に読む。目を背けたくなるようなものほど、自分に足りないもの。これまで読んだことがないような文章を、どんどん読んでみる。言葉や、作家の感性に対する、感覚を鋭くする。自分にしか見えないものを見つけるためには、人が面白さを見出さないところに、面白さを見出せる、感性が必要だから。飛んでくるボールに対して、自然に体が動くようになるまで、ボールを追いかける。 小説をつかまえるために、暗闇の中で目を見開き、沈黙の中で耳をすます。 ■どう書くか 自分が好きな作家を、文章を見つける。それを真似る。何度も書き写す。最初は、独創的に書こうなどと、思ってはならない。ただ、真似ることだけを考える。そのうち、その作家が書いたかのような文章を、自然に書けるようになったら、それはたしかに、自分の文体になったといえる。そうならなければ、それはおそらく、そのときの自分が求めているものではなかったのだろう。また、真似る対象は一つとは限らない。そうしているうちに、自分の独創的な文体というものが、出来上がっている。 小説を、あかんぼうがははおやのしゃべることばをまねするように、まねる。 ■最後に 自分のことを書きなさい。ただし、ほんの少しだけ、楽しいウソをついて。 「小説を捕まえる瞬間」を数多く知り、自分が小説を捕まえる型を手に入れることが、プロの小説家になる道だと思った。

Writing: 書かなければ何も解らぬ

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, June 7th, 2008

解るために書くのである。 文学者が文章というものを大切にするという意味は、考える事と書く事との間に何んの区別もないと信ずる、そういう意味なのであります。拙く書くとは即ち拙く考える事である。拙く書けてはじめて拙く考えていた事がはっきりすると言っただけでは足らぬ。書かなければ何も解らぬから書くのである。文学は創造であると言われますが、それは解らぬから書くという意味である。予め解っていたら創り出すという事は意味をなさぬではないか。 (「文学と自分」小林秀雄)

Over Achievement: 働きたがる脳

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, June 7th, 2008

我々は、やりすぎてしまう。もっと、もっと。必要以上に。 労働は「オーバーアチーブ」を志向する。 飢えが満たされても満たされないのである。 もっと働きたいのである。 via: 労働について (内田樹の研究室) 人間ではない知的生物がそれを観察すれば、およそ合理的な生き物に見えないだろう。なぜリターンの必要以上にインベストする必要があるだろうか。必要なリターンを得れば十分なはずである。 どうやら我々は脳のどこかに「欠陥」を抱えているようだ。しかし、その「欠陥」を抱えた我々の祖先が、そうではない者達よりも繁栄したからこそ、我々の祖先であるのだろう。その「欠陥」を持たなかった者達は、今日に至るまで発展しなかったようである。その「欠陥」が生存競争においてどのような力学上の意味を持つのかは分からないが、どうやらそういうことであるらしい。 我々は「腹八分目」とか「足るを知る」とかの言葉を理解も納得も出来ない、そういう生き物なのかもしれない。そうであろうと、あるまいと、我々の幸せとは、我々の知覚の問題であるからして、好むと好まざるとに関わらず、その頭蓋の中に納まっているぶよぶよした脳みその傾向によって決まる。そんなものに決められたくない、主体的に自分で幸せの基準を決める、といっても詮無いことだ。そう考える自分を、考えさせているのが、そのぶよぶよなのだから。 そういう自己循環構造のなかで、人間の思考力は限界に苦しむ。悩みに悩みぬき、現実世界に対して理想世界や神といった絶対座標系を導入することによって、みずからを相対化し、安定した足場、心の拠り所を得て安心するという方法を発明した。西洋思想はそういったものであるようだ。ただ、デカルト、パスカル、カント、サルトルなど、みんな悩んだようだ。 一方、そのぶよぶよを、あるがままに、前提として受け入れ、自分の性質(nature)つまり自然現象に抗うことをやめてしまう。そうすれば悩みは、迷いは無くなるだろう。確固たる足場は無いが、ぶよぶよの上で、みずからも揺らいでいればいいではないか。沈むまいと必死に泳げば体力を消耗するが、寝そべっていれば沈まない。ただ流されるだけだ。ゴータマ・シッダッタという人が得た気付き、悟りとは、どうやらそういうものであるらしい。それが禅という思想になって今日まで伝わっている。 心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな  最明寺入道時頼 via: 碌々(ろくろく)ブログ 心に心を許さない ぶよぶよが労働を好きだというなら、仕方ない。そこから逃れるのは難しい。ぶよぶよには勝てない。頭は理性で、ぶよぶよは感情だ。頭でいくら考えたところで、ぶよぶよは従わない。 働けばよい。その単純な事実に気付く妨げになっているのが「なぜ働くのか」とか「天職とは何か」とかいった当世風の悩みであるようだ。働く理由など見つからなくても、働けばよい。天職など分からなくても、働けばよい。いや、働かざるを得ない。生きる糧を得るために。きっかけはそれで構わない。働こう。隠居するまで続いた仕事が天職だ。天職とは、探すものではなく、あとから気付くものだ。最近の若者はそういう素朴な考えとは程遠いようである。 悩むべきは「なぜ働くのか」とか「天職とは何か」とかいったことではない。「いかに生きるべきか」という問題だ。倫理とか哲学とか修身とか、いろんな言い方があるが、そういうことだ。労働ごときに悩むよりも、そちらのほうが余程重要ではないか。労働など生きることの一部にすぎない。労働に悩む暇があったら、とりあえず働いてみて、働きながら文学や哲学でも読んでいればよい。「いかに生きるべきか」を考えるなかで、あるいは自分に適した仕事といったものが見えてくるなら、それはとても幸せなことだ。 労働観なんて考えるものじゃない。人生観から自然と生まれるものだ。働こう。 とりあえずそこらへんの木の実を拾ったり、魚を釣ったり、小動物を狩ったりして飢えが満たされるのなら、誰が分業だの企業だの資本だのというめんどうな制度を作り出すであろう。 労働は「オーバーアチーブ」を志向する。 飢えが満たされても満たされないのである。 もっと働きたいのである。 そういう怪しげな趨向性を刻印された霊長類の一部が生産関係をエンドレスで巨大化複雑化するプロセスに身を投じたのである。 どうして「そんなこと」を始めたのか、私は知らない(たぶんマルクスも知らない)。 とにかく、そういうことになった。 via: 労働について (内田樹の研究室) Homo sapience ホモ・サピエンス 考える存在 Homo socialis ホモ・ソシアリス 社会的存在 Homo loquens ホモ・ロケンス ことばを操る存在 Homo ridens ホモ・リデンス 笑う存在 Homo ludens ホモ・ルーデンス 遊び・芸 Homo faber ホモ・ファベル 働く存在 Homo amans ホモ・アーマンス 愛の存在 Homo religious ホモ・リリギオス 宗教心 via: 引用元PDF

Amedeo Clemente Modigliani: 美の再発見

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Saturday, June 7th, 2008

国立新美術館 モディリアーニ展 "Modigliani et le Primitivisme" 素晴らしかった。その感動を忘れぬうちに文章にしておく。 貧しい生活のなか、いまだ得られぬ独創性を模索しつつ、焦燥感・鬱憤・不安をぶつけたかのような陰惨な絵を書く若者。 彼は原始美術と彫刻という二つの美のかたちに出会う。彼の求める美の手がかりがそこにあった。カリアティッド(古代ギリシャ建築の梁を支える女性像の柱)の手法をものにし、理想の美のかたちを手に入れた彼は、友人・知人・隣人というモチーフを自らの美の型にはめて描くことで、普遍的な美のかたちと、モチーフの個性という二つの要素を同時にキャンバス上に出現させることに成功した。 何よりも心打たれたのは、何枚ものカリアティッド。いちど掴んだ手掛かりを死んでも放すまいと、執拗に執拗に、何度も何度も彫刻しては絵を描く、その無限の繰り返し。おそらく肺を病む彼の死期を早めたであろうその粉塵は、しかし彼の血肉となり、キャンバス上に彼にしか見えない究極の美の曲線を見いだすに至らしめたに違いない。 35にして生涯を終えた彼は晩年に妻(ジャンヌ・エビュテルヌ)を描いている。その絵からは、彼の目を通して妻の神々しいまでの美しさが、彼の筆を通して妻への溢れる愛が伝わってくる。 彼が死を予感していたのか知る由も無いが、彼の絵はまるで死を迎える準備を済ませた人や、悟りを得た宗教家にしか実感しえないような、世界そのものが光を放って見えるという世界観を表現しているようだ。三十路そこらでその境地に至った彼に感動した。 独創とは生み出すものでも、手に入れるものでもない。自らの内に見いだすものだ。彼の歩みはそう教えている。 See also: カリアティッドとは本来、古代ギリシャの神殿建築で梁を支えている女性を象った柱のこと。アテネのアクロポリスにあるエレクティオンの人柱像が有名だ。この時代、まだ彫刻家を目指していたモディリアーニは、カリアティッドと題した石の女性像を多数つくり、ゆくゆくは「逸楽の神殿」を造ることを夢みていたという。そのために、たくさんのカリアティッドの下絵を描き、実際に彫刻を手がけている。彫刻はわずか2点しか現存しないが、下絵の素描は数多く残った。モディリアーニ作品では、こうした彫刻やその下絵の素描を「カリアティッド」と呼ぶ。 via: 【レポート】知られざる原点から代表作までモディリアーニの全容を一望 - 国立新美術館 (3) カリアティッドを通して追求した完璧な美 | ライフ | マイコミジャーナル モディリアーニ研究の第一人者として知られるレステリーニさんは、こう説明する。「カリアティッドは、モディリアーニがアフリカ、オセアニアなどの原始美術に触れて、人間の形を根本から再構築しようとした探求の跡です。その後の彼の絵はこの延長線上にあります」 via: asahi.com:「長い首の疑問 解決します」 モディリアーニ展 - 文化一般 - 文化・芸能 Amedeo Modigliani. Portrait of Woman in Hat (Jeanne Hébuterne in Large Hat). - Olga's Gallery ジャンヌ・エビュテルヌ - 松浦淳のブログ - 楽天ブログ(Blog) analog | Uniqueness Is Being Yourself: 自分の資質 analog | Consequence: 独創とは

Process over Result: 過程主義

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Friday, June 6th, 2008

先日は評価と採用についての自説を述べた。 会社にとって評価とは何か。どのような人材が評価されるのかという理想的人材像を示し、それに向かって努力させることが評価の第一義的な目的である。・・・この会社においてどのように努力し、何を身につけ、どう言動すれば評価されるのか、その指針が評価基準である。・・・評価制度があることによって、どういう風に働けばいいのかが明確になる。これが評価の第一義的な目的なのである。 via: analog | Agreeing With Agreements: 評価と採用 では実際に評価基準を考えてみようか。すると「理想的人材像とは何か」という問題が浮上する。これについて考えてみたい。 結果としての成果を出す人材が理想的なのだろうか。そうではない。仕事の結果は偶然性に左右される。良い仕事ぶりでも、良い結果が出るとは限らない。結果を評価するならば彼の評価は低くなるが、それで彼は納得するだろうか。難しいだろう。 営業マンの販売結果を考えてみよう。正しいと思われるやり方でも、悪い結果が出るかもしれない。自分より優れた結果の同僚に対して「あいつは担当した地区がよかっただけだ」などと思うかもしれない。その真偽はともかく、そういう気持ちがあれば仕事に身が入らないだろう。また、先月に高い結果を出した、同じ方法で、今月は低い結果が出るかもしれない。結果だけで評価されるとなると、本人は努力の方向を見失って混乱するだろう。安易に結果を求めて望ましくない行動に及ぶかもしれない。 会社の将来を作るような大事な仕事は、やればやっただけ結果が出る、といった仕事ではない。正しいと思われるやり方でも結果が出ない、そういう仕事ばかりだ。あるいは、間違ったやり方でも結果は出るかもしれない。新規事業などはその最たるものだろう。不確実性に大きく左右される仕事だ。こんなものを結果で評価しても仕方ないだろう。評価された社員と、されなかった社員を分かつものは、ひとえに運だ。ならば仕事はくじ引き程度の意味しか持たない。 とくに扱いづらいのは、短期的にめっきの剥がれない、でっちあげの結果を出すことができるような仕事。もちろんそういうでっちあげの結果は、後のちに大きな負債を残すのだが。こういう仕事を結果で評価すると、どうなるか。結果を出して出世すれば、そのめっきが剥がれる前に違う役職に転じることになる。勝ち抜けである。こうなれば社員のモラールを保つことは難しい。後任者は勝ち抜けた前任者を呪うと同時に、会社の評価制度を信用しなくなるであろう。 つまり、結果で社員を評価することは、社員のモラール低下と背中合わせである。三井物産はそのために成果主義を撤回したという。きっかけは二つの不正事件だ。三人の逮捕者を出した。→日経新聞の記事・・成果主義の「撤回」 創業日誌/ウェブリブログ 本当に大事な仕事、将来を作るような仕事は、将来が本質的に不確実であることから、おのずと結果は不確実性を含む。そのような仕事を評価するには、結果ではなく過程で評価するのが適当だろうというのが私の考えだ。 「ミス(過失)」と「失敗」の厳密な区別をしたいものだ。 「ミス」とは過程。同じミスを繰り返さないことで、完璧な仕事に近づく。分野によってはミスをゼロにすることもできる。 「失敗」とは結果。ミスをなくしても、同じ失敗が起こる可能性がある。失敗の要因が人為ミスではなく環境変化によるとしたら、もはやミスではない。不可避だ。(しかし、その環境変化が予測可能だったならば、ミスになるかもしれないが) via: analog | Error and Failure: 過程と結果 では、結果ではなく、過程で評価するとしよう。過程における「良い仕事ぶり」を評価するような評価制度を採用するとしよう。「理想的人材像」とは「良い仕事ぶり」を見せる社員であると。そうなると、次の課題は「良い仕事ぶり」を定義することだ。(これはコンピテンシーという分野の中心課題だと思う)

Paradox: 率直

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Thursday, June 5th, 2008

小林秀雄は言う。「逆説とは弄するものではない、生れるものだ。動いている現実を動いているがままに誠実に辿る分析家の率直な表現である」 意地悪くものを見て意地悪く表現するより、率直にものを見て率直に表現するほうが遥かに難しいが、率直にものを見て必然的にその表現が逆説的になるということには、もっと大きな困難がある。例えば「心の貧しきものは幸いなリ」というキリストの言葉は、驚く可き率直が、極端な逆説となって現れた典型であり、又真の逆説の困難を語るお手本みたいなものだ。 (逆説というものについて) 真の逆説の源には、つねに烈しい率直な観察がなければならぬ、割り切れない現実を直覚する鋭敏な知性がなければならぬ。逆説とは弄するものではない、生れるものだ。動いている現実を動いているがままに誠実に辿る分析家の率直な表現である。 (逆説というものについて)

Agreeing With Agreements: 評価と採用

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Thursday, June 5th, 2008

人が人を評価するのは難しい。まず正解が無い。誰もが満足する評価も難しい。あるいは全員一律の評価基準を適用せずに、一人ひとりを臨機応変に評価するというのも一つの見解かもしれない。 ただ、ひとたび全員を同一の基準で評価すること、評価の仕組み化を考えるならば、大事なことは、その評価基準と採用基準の整合性である。 誰もが満足する仕組みは無いが、その会社の全員が「納得」する仕組みならば作れるだろう。これは間違いない。その会社の仕組みに納得する人だけを雇えばよいからである。しかるに評価と採用は両輪であって、どちらか一方だけを考えるとか、変更するとかには危険をともなう。 満足と納得の違いは何か。満足とは評価の結果に対するものである。自己評価よりも上司の、会社の評価のほうが高ければ満足であろう。納得とは評価の過程も含む。満足する評価であっても、自分のどこが評価されたのか分からないような評価では納得しがたいだろう。納得するためには、どこを、どのように評価したのかという説明が必要だろう。 満足と納得の違いは評価の要点かもしれないが、仕組みではない。では仕組みとは何かというと、そういった評価の要点を、誰が評価しても同じように実行できるということである。 それと同時に、こうも言える。ある会社が評価の仕組みを持っていて、それを求職者へ明確に示すとする。求職者がその会社に入社するかどうか考える上では、その仕組みについて慎重に検討するはずだろう。ならば入社する人は、その仕組みに合意したうえで入社するに違いない。 このように評価と採用を表裏一体と考えて事にあたるのがよいのではないだろうか。 ところが評価制度というと社会保険労務士という人たちが出てくる。彼らは法律との適合性や、労働訴訟を回避するための仕組みづくりにおいてはプロフェッショナルといえるのだろう。しかし最大の問題は、彼らが人材採用を埒外としていることだ。採用を知らずになぜ評価ができるのだろう。どうにも困難を伴うように思われる。 あるいは彼らが作った評価の仕組みにあわせて、どのような人を採用するか考えれば良いのだろうか。これはうまくいきそうに思われる。その社会保険労務士が、企業の理念にもとづいて、望ましい人材像と、その評価基準を適切につくれるならば、だ。そのようなことができる社会保険労務士は非常に少ないと聞いているが。 評価と採用はどちらが先か。これは評価に決まっている。どのような評価基準かということは、どのような社員が理想的かを定義することにほかならない。そして採用活動とはなるべく理想に近い人材を採用することが目的なのであるから、まず人材評価の仕組みが先であって、その延長に人材採用があるのである。これを逆にしてはならない。 このような会社では、まず「わが社はこういう会社です。こういう評価をします」という合意のもとに雇用契約が発生し、「あなたの評価はこうです。詳しくはこういう具合です」といった評価が行われる。そこで「あなたはもともとこの評価の仕組みを知ったうえで入社したのです」ということになるから、これは満足できなくても納得せざるを得ない。満足できないとしたら、本来評価されるべき仕事が評価されないという評価制度運用上の問題か、あるいは評価されることを成し遂げなかった社員の問題か、どちらか一方であろう。前者ならば実際にそうであるかどうかを話し合うことになるであろうし、後者ならばより評価される仕事ぶりを身につけるよりない。 会社にとって評価とは何か。どのような人材が評価されるのかという理想的人材像を示し、それに向かって努力させることが評価の第一義的な目的である。つまり評価される言動とはどういうものかを示すのが評価の目的なのであって、報酬の査定をするとか、出来なかったことを探して減点法で点数をつけるといったことは評価本来の目的には遠い。この会社においてどのように努力し、何を身につけ、どう言動すれば評価されるのか、その指針が評価基準である。報酬はその結果に過ぎないが、高い評価と高い報酬は連動するのが当然である。 評価制度があることによって、どういう風に働けばいいのかが明確になる。これが評価の第一義的な目的なのである。

A Poor Player: 影法師

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Wednesday, June 4th, 2008

人生経験が演技に深みを与える、などといった物言いは、もはや過去のものかもしれない。観客は役者に人間性まで求めていない、そういう時代だろうか。 今では映画をつくっているのは観客です。今の映画はなかにはなにもありません。かつてはキートンとかチャップリンといったスターたちが、自分の肉体をつかって演技したり演出したりしていました。でも今は、スターであればあるほどなにもしないのです。(・・・)カットとカットを頭でつないで、「彼はこれこれのことを考えている」と考えるのは観客なのです。(・・・)仕事をするのは観客なの方なのです。観客は金を払って、しかも仕事をしているのです。(『ゴダール映画史1』ジャン・リュック・ゴダール より) 引用元 ハリウッドセレブと彼らをとりまくゴシップなどの生態を見ていると、現代とは人間である前に役者であることが可能な時代なのだろう。 いや、彼らは役者である前にスターなのかもしれない。セレブなのかもしれない。むしろ芸人なのかもしれない。ゴシップ誌において彼らの演技について何も言及はされない。ただ彼らがセレブである、それだけが関心の対象になる。成功した役者はセレブと呼ばれるのではあるが、ゴシップの文脈においてセレブが役者であるかどうかは関係ない。 いずれにしても、みずからの人生そのものを切り売りするという生業は、あるいは舞台の上だけの演劇よりも深い精神性を持つことも可能かもしれない。そう思わずにはいられない。現に文学やファイン・アートは作家の人生と切り離すことが難しいではないか。 そういったハリウッドセレブというものが少ない、あるいはいないだけだろう。「セレブ」という様式でみずからの人生を表現手段とするような芸人、あるいは人生の役者といったものは、下手な文学やファイン・アートを超えた精神性を我々に見せ付けることになるだろう、と予感する。 たとえば、こういう言葉からなにか豊かな想像ができないだろうか。 「パリス・ヒルトンという文学」 「シャロン・ストーンという文学」 あるいは計算された喜劇だとすると・・・ いつの世でも天才たちは恵まれない。それに比べて小手先の世渡りだけで、うまくやっている偽者どもがもてはやさる、ああ情けないがそれが人生、それが浮世さ。だけど…。 私は違う。そうはならない。なりはしない。己を騙し、揉み手を摺るなど惨めなだけ。たとえ私は飢えて死んでも心は売らぬ。だから私はこの人生の大根役者。 人に嘲られ指を指されても憐れみ乞うなぞ断じてしないさ。泥にまみれても、輝き渡る天才の意気地をお目にかけましょう。 そうだ!私は誰にも負けない!負けはしない。生きてゆくのだって大根役者!それもけっこうだ。 引用元 人生は歩き回る影法師。哀れな役者だ  : Life's but a walking shadow, a poor player, 引用元

Look Forward: ますます賢く

̃Gg[܂ނ͂ĂȃubN}[N Wednesday, June 4th, 2008

読むたびに泣く。この文章も、書きながら泣いている。 いい人間になりたい。利口になり役にたつ人間になりたい。 賢くなりたい。    ますます賢く        武者小路実篤  僕も八十九歳になり、少し老人になったらしい。  人間もいくらか老人になったらしい。人間としては少し老人になりすぎたらしい。いくらか賢くもなったかも知れないが、老人になったのも事実らしい。しかし本当の人間としてはいくらか賢くなったのも事実かも知れない。本当の事はわからない。  しかし人間はいつ一番利口になるか、わからないが、少しは賢くなった気でもあるようだが、事実と一緒に利口になったと同時に少し頭もにぶくなったかも知れない。まだ少しは頭も利口になったかも知れない。然し少しは進歩したつもりかも知れない。  ともかく僕達は少し利口になるつもりだが、もう少し利口になりたいとも思っている。  皆が少しずつ進歩したいと思っている。人間は段々利口になり、進歩したいと思う。皆少しずつ、いゝ人間になりたい。  いつまでも進歩したいと思っているが、あてにはならないが、進歩したいと思っている。  僕達は益々利口になり、いろいろの点でこの上なく利口になり役にたつ人間になりたいと思っている。  人間は益々利口になり、今後はあらゆる意味でますます賢くなり、生き方についても、万事賢くなりたいと思っている。  ますます利口になり、万事賢くなりたいと思っている。我々はますます利口になりたく思っている。  益々かしこく。