Process over Result: 過程主義
先日は評価と採用についての自説を述べた。
会社にとって評価とは何か。どのような人材が評価されるのかという理想的人材像を示し、それに向かって努力させることが評価の第一義的な目的である。・・・この会社においてどのように努力し、何を身につけ、どう言動すれば評価されるのか、その指針が評価基準である。・・・評価制度があることによって、どういう風に働けばいいのかが明確になる。これが評価の第一義的な目的なのである。
では実際に評価基準を考えてみようか。すると「理想的人材像とは何か」という問題が浮上する。これについて考えてみたい。
結果としての成果を出す人材が理想的なのだろうか。そうではない。仕事の結果は偶然性に左右される。良い仕事ぶりでも、良い結果が出るとは限らない。結果を評価するならば彼の評価は低くなるが、それで彼は納得するだろうか。難しいだろう。
営業マンの販売結果を考えてみよう。正しいと思われるやり方でも、悪い結果が出るかもしれない。自分より優れた結果の同僚に対して「あいつは担当した地区がよかっただけだ」などと思うかもしれない。その真偽はともかく、そういう気持ちがあれば仕事に身が入らないだろう。また、先月に高い結果を出した、同じ方法で、今月は低い結果が出るかもしれない。結果だけで評価されるとなると、本人は努力の方向を見失って混乱するだろう。安易に結果を求めて望ましくない行動に及ぶかもしれない。
会社の将来を作るような大事な仕事は、やればやっただけ結果が出る、といった仕事ではない。正しいと思われるやり方でも結果が出ない、そういう仕事ばかりだ。あるいは、間違ったやり方でも結果は出るかもしれない。新規事業などはその最たるものだろう。不確実性に大きく左右される仕事だ。こんなものを結果で評価しても仕方ないだろう。評価された社員と、されなかった社員を分かつものは、ひとえに運だ。ならば仕事はくじ引き程度の意味しか持たない。
とくに扱いづらいのは、短期的にめっきの剥がれない、でっちあげの結果を出すことができるような仕事。もちろんそういうでっちあげの結果は、後のちに大きな負債を残すのだが。こういう仕事を結果で評価すると、どうなるか。結果を出して出世すれば、そのめっきが剥がれる前に違う役職に転じることになる。勝ち抜けである。こうなれば社員のモラールを保つことは難しい。後任者は勝ち抜けた前任者を呪うと同時に、会社の評価制度を信用しなくなるであろう。
つまり、結果で社員を評価することは、社員のモラール低下と背中合わせである。三井物産はそのために成果主義を撤回したという。きっかけは二つの不正事件だ。三人の逮捕者を出した。→日経新聞の記事・・成果主義の「撤回」 創業日誌/ウェブリブログ
本当に大事な仕事、将来を作るような仕事は、将来が本質的に不確実であることから、おのずと結果は不確実性を含む。そのような仕事を評価するには、結果ではなく過程で評価するのが適当だろうというのが私の考えだ。
「ミス(過失)」と「失敗」の厳密な区別をしたいものだ。
「ミス」とは過程。同じミスを繰り返さないことで、完璧な仕事に近づく。分野によってはミスをゼロにすることもできる。
「失敗」とは結果。ミスをなくしても、同じ失敗が起こる可能性がある。失敗の要因が人為ミスではなく環境変化によるとしたら、もはやミスではない。不可避だ。(しかし、その環境変化が予測可能だったならば、ミスになるかもしれないが)
では、結果ではなく、過程で評価するとしよう。過程における「良い仕事ぶり」を評価するような評価制度を採用するとしよう。「理想的人材像」とは「良い仕事ぶり」を見せる社員であると。そうなると、次の課題は「良い仕事ぶり」を定義することだ。(これはコンピテンシーという分野の中心課題だと思う)

