Progressive Management: 経営の未来

このエントリーを含むはてなブックマーク June 4th, 2008 | posted in philosophy, book, management |

「経営の未来 マネージメントをイノベーションせよ」 — 神泉ではたらくたまごのブログ

とてもよいまとめだ。ありがたい。こうしてみると、あらためて、私がこの本へ抱いた違和感がくっきりと見えてきた。

古代ギリシャで誕生して約2500年を経てもまだ、民主主義という分野では上るべき山がある。そのように考えるならば、近代経営管理がわずか100年の進歩で、その変化の潜在力を使い果たしたと決め付けるのは傲慢だろう。それは、20世紀に人類に大いに役立った技術が21世紀が求めるものにも等しく適していると決め付けるのと同じく、ばかげたことだ。

ここに大きな違和感を感じるのだ。人が人を統べる方法において古代も現代もあるものか。古代ギリシアの政治や軍隊組織よりも、現代のわれわれはよりよく組織運営している、などと無邪気に信じるとすれば進歩主義の浅薄さも極まったものだ。いまだに孫子の兵法や三国志に学んでいる経営者が数多くいることを考えてみるがよい。多くの人の常識にも一致する。人間の実相というものは古代より何も変わっていないと考えるのが、連綿たる歴史に対する敬意というものだろう。先人への敬意というものだろう。現代の目で過去を見てはならない。自分が過去のその時点において実際に生まれ、生きていたとして、そのときの彼らよりも優れた先見性でもって、何らかの判断ができたはずであろうなどとどうして言えようか。そのような考え方は歴史に対する理解の浅さでしかない。人類の、先人の、尊い営みに対する冒涜でしかない。ソクラテスやプラトンほどの深い思索によって現代の我々は世界を見ているだろうか。みずからの哲学に殉じたソクラテスほどの深みをもって我々は物事を考えているのだろうか。

安易な進歩史観が人間の進歩を止めるのだ。我々はただ現在に生きているというだけで過去の人よりも優れている、もしくは先に進むことができるなどと馬鹿げた考えを持つべきではない。過去の人々の到達点を、みずからの出発点だと思ってはならない。人間が人間について考えるうえで、みずから考えずに教科書かなにかで仕入れた知識で考えたふりをするなど馬鹿げたことだ。人間が人間について考えるときにはみずからの頭で考えるしかない。それが出発点だ。先人の歩みの先ではない。先人の歩みを第一歩から辿るしか道は無い。

そうでなければ人類の叡智とはいったいなんだというのだ。科学技術の知識のことか。そうではあるまい。人間が人間の真相について徹底して考えた、その結論ではなく過程をこそ、我々は先人の叡智として辿るべきなのだ。そして人間が二千年やそこらでは変わらないことと、人間が自分で考えることのできる時間は寿命によって限られていることを考えれば、とてもではないが二千年前の哲人達と同じ高みに到達することが容易であるなどとは思えないはずである。

現在とは明日の過去だ。我々は少しの油断も無く未来へ向かって努力しなければならず、そこまでしても二千年前の哲人達と同じ視座を得ることは一生のうちにかなわないかもしれないという覚悟をもって、先人の知恵に向き合うべきなのである。

そうしなければ人類は世代ごとに愚かになってゆくであろう。みずからの出発点が先人の歩んだ到達点から始まる、という誤解は危険ですらある。

人間が人間性について考えたことは、残念ながら科学技術のように伝承できるものではないのだ。生れ落ちて死ぬまでのあいだに考える。賢くなる。そして死を迎える。それで終わりだ。一生をかけて考たことは、そっくりそのまま誰かに引き継がれたりしないのだ。ただ、その思索の過程を言葉として伝えることはできる。だから我々はその言葉に触れて自分で考える肥やしにすることはできる。だがそれだけだ。先人の言葉は自分の頭で考えることの代用品にはならない。

「経営の未来」に話をもどそう。そもそも経営(マネジメント)の祖は誰かというとドラッカーだ。齢九十を超えてまで経営を考え続けたドラッカーという人の思考の過程を追うだけでも容易ならざることだろう。その結論めいた上澄みだけを味見して心得た気になるとは勘違いも甚だしい。ほんとうの智恵とは彼が何を得たか知ることではなく、彼がどのようにしてそれを得るに至ったかを辿ることである。彼の人生、考えた時間の長さにくらべて高が数年の時間ではとても足りないだろう。辿ることはできないだろう。

ふたたび引用する。

古代ギリシャで誕生して約2500年を経てもまだ、民主主義という分野では上るべき山がある。そのように考えるならば、近代経営管理がわずか100年の進歩で、その変化の潜在力を使い果たしたと決め付けるのは傲慢だろう。それは、20世紀に人類に大いに役立った技術が21世紀が求めるものにも等しく適していると決め付けるのと同じく、ばかげたことだ。

たしかに、いつの時代も方法の進化の余地はある。むしろ「完成」したかに見えるところに新たな努力を発明するのはある種の天才の仕事でもある。そういう努力の発明によって人類は進化してきたと言っても過言ではない。いつの時代でも、もっと賢く、よりよく、生きていこうという前向きな考え方は尊い。それをなんら否定することはできない。

しかし、我々はドラッカーが見た経営の本質を実践すらしていないのに、何ひとつ実践として「完成」させていないのに、その先へ行こうというのか。ドラッカーとは実践を伴わずに理解できるほどの知識しか述べなかった人物か。私にはそうは思われない。我々はまだドラッカーが描いた経営の理想を実現していない。誤った成果主義や、不完全な会計制度で右往左往しているのが我々の実態だ。ドラッカーの考えた仕組みは導入されたが、ドラッカーが考えた通りに実行はされていない。我々はまずドラッカーの考えた経営の理想を完璧に実行できるようになるべきだろう。

経営管理の「技術」は、20世紀前半に急速に進化したのち、現在は近場の山の頂上に到達しているのである。エベレスト級の山ではなく、そこそこの山だ。

我々が登り切って力尽きている山は、ドラッカーが思い描いた経営の理想という山なのか。我々が高尾山を登り切って力尽きているだけなのであって、ドラッカーが思い描いたのはエベレスト級の山々ではなかったのか。

人々はドラッカーが考えた仕組みの、形だけを導入して失敗した。今度はドラッカーがそれらの仕組みを着想するに至った問題意識を、彼の思索の遍歴を辿って理解すべきではなかろうか。ドラッカーが語ったのは経営管理の「技術」やノウハウといったものではない。むしろ徹底した人間観察の果てに得られた智恵である。

経営管理の「技術」を問題にするまえに、経営とは何かについて、ドラッカーと同じ高みにおいて、深みにおいて、我々は考えたことがあるのだろうか。その思索を経たのち、あらためて、かつて失敗した仕組みを試してみるべきではないか。それにより、かつてなくドラッカーの考えた経営の理想に肉薄できるのではないだろうか。

そう、「経営の未来」とは、経営(マネジメント)の祖が考えたことをすべて実践したうえで、はじめてその先に見えてくるものではないか。その先を考えるのは、語るのは、まだ早いのではないか。私にはそう思えてならないのである。

続編→analog | Management Revisited: 経営の未来(再)

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