A Poor Player: 影法師
人生経験が演技に深みを与える、などといった物言いは、もはや過去のものかもしれない。観客は役者に人間性まで求めていない、そういう時代だろうか。
今では映画をつくっているのは観客です。今の映画はなかにはなにもありません。かつてはキートンとかチャップリンといったスターたちが、自分の肉体をつかって演技したり演出したりしていました。でも今は、スターであればあるほどなにもしないのです。(・・・)カットとカットを頭でつないで、「彼はこれこれのことを考えている」と考えるのは観客なのです。(・・・)仕事をするのは観客なの方なのです。観客は金を払って、しかも仕事をしているのです。(『ゴダール映画史1』ジャン・リュック・ゴダール より)
引用元
ハリウッドセレブと彼らをとりまくゴシップなどの生態を見ていると、現代とは人間である前に役者であることが可能な時代なのだろう。
いや、彼らは役者である前にスターなのかもしれない。セレブなのかもしれない。むしろ芸人なのかもしれない。ゴシップ誌において彼らの演技について何も言及はされない。ただ彼らがセレブである、それだけが関心の対象になる。成功した役者はセレブと呼ばれるのではあるが、ゴシップの文脈においてセレブが役者であるかどうかは関係ない。
いずれにしても、みずからの人生そのものを切り売りするという生業は、あるいは舞台の上だけの演劇よりも深い精神性を持つことも可能かもしれない。そう思わずにはいられない。現に文学やファイン・アートは作家の人生と切り離すことが難しいではないか。
そういったハリウッドセレブというものが少ない、あるいはいないだけだろう。「セレブ」という様式でみずからの人生を表現手段とするような芸人、あるいは人生の役者といったものは、下手な文学やファイン・アートを超えた精神性を我々に見せ付けることになるだろう、と予感する。
たとえば、こういう言葉からなにか豊かな想像ができないだろうか。
「パリス・ヒルトンという文学」
「シャロン・ストーンという文学」
あるいは計算された喜劇だとすると・・・
いつの世でも天才たちは恵まれない。それに比べて小手先の世渡りだけで、うまくやっている偽者どもがもてはやさる、ああ情けないがそれが人生、それが浮世さ。だけど…。
私は違う。そうはならない。なりはしない。己を騙し、揉み手を摺るなど惨めなだけ。たとえ私は飢えて死んでも心は売らぬ。だから私はこの人生の大根役者。
人に嘲られ指を指されても憐れみ乞うなぞ断じてしないさ。泥にまみれても、輝き渡る天才の意気地をお目にかけましょう。
そうだ!私は誰にも負けない!負けはしない。生きてゆくのだって大根役者!それもけっこうだ。
人生は歩き回る影法師。哀れな役者だ
: Life’s but a walking shadow, a poor player,
引用元

