Noncontigous Supply and Demand Curves in Contents Market

このエントリーを含むはてなブックマーク September 29th, 2007 | posted in society, IT, marketing, web |

[Japanese version is below / 日本語は下にあります]

I’ve just found an interesting comment on Twitter.

Quotes here are origianally Japanese text. I translate these into English below.

Twitter / Daisuke Tsuda
Contents’ sales issues, in most cases, could be boiled down to only two points: price and channel.

Twitter / Daisuke Tsuda
Nowadays, people who purchase (pure) information are fewer than I expected; even its price is only 2,250yen($19.50). Thus, I would say qualities of contents are not worth discussing.

It’s interesting. Ignoring any quality issues of each contents, when discussing contents market from economic point of view, it will prevent us from “miss the forest for the tree.” I think this will work.

By the way, now I want to discuss about the topic: Noncontigous Supply and Demand Curves.

When price of a digital content is lower than a transactional cost(price), I will hesitate to purchase it. How about you?

Haven’t you have a similar experience? For instance, when you add some items to an online shopping cart, you find that you need a few more dollars for free shipping? It means that you lose your money by buying only what you need.

In that case, which do you choose, purchase at once or keep the cart until the next shopping?

There are many people who choose the latter. This is the loss of business chances.

So I conclude this topics. Many transactions are not made in that price range ( from zero to transactional costs). I call it ‘noncontigous’ or ‘chasm’ of supply-and-demand curves.

This is an ‘atom’(physical) case. It’s a ‘real’ product that is transfered. On the other hand, there’s a ‘bit’(digital) case. It’s an ‘electronical’ product that is transfered. I can find this kind of situation significantly in ‘bit’ cases.

What makes the difference between ‘atom’ and ‘bit?’ I think the keys are custom, common sense, brain-washing. It takes a long time to shift. But, in other words, time will make a change for sure. Please wait for it. Time will tell.

See also: Pricing is a business myth

コンテンツ市場における需要供給曲線の非連続性

[English version is above / 英語は上にあります]

Twitterでおもしろいコメントを見つけたので紹介する。

Twitter / 津田大介
ほとんどのコンテンツの売上問題は、価格と流通がどうかということに集約されるのではないか。

Twitter / 津田大介
たかだか2205円であっても、今の時代にわざわざ単なる情報にお金を払う人は思った以上に少ないというのが現実だ。だから俺は二重の意味でコンテンツの質を云々する議論というのはあまり意味がないのではないかと思っている。

なるほど面白い。注目すべきは「価格」と「流通」であり「質」ではないと。

ちょっと読み違えているかもしれないので、以下の議論は、上述の引用とあまり関係がないものとして読んで欲しい。

コンテンツの「質」は簡単に定量化できないから、個別の話に陥りがちだ。流通や価格形成についての経済学的(つまり法律も含む制度設計)な議論をしたいなら「質」を無視したほうがよさそうだ。
(※議論には「モデル化」が重要であり、「モデル化」とは簡単すぎない程度に簡単化して、多くの要素を無視することだ。だから「質を考慮しない議論はけしからん」などという指摘はナンセンスである。逆に「質」を軸に「価格」を無視した議論をしたい人は、勝手にやってください。それももちろん有意義になりえます)

上述の津田氏の発言意図が正直なところ分からないのだが(なにせTwitterは「つぶやき」だから)、仮に下記のようなものであったとして、話を進めてみる。

  • どんなに質が低いコンテンツにも、それに見合った低い価格がつくだろう。
  • ならば、需要曲線と供給曲線の交わるところで取引が成立するだろう。

これについて、一つ付け加えておきたい。

(※言うまでもないが、この文章では津田氏と議論をしたい(けんかをふっかけたい)のではなく、この記事の読者に向けての情報提供を目的としている。もちろん津田氏からのフィードバックも歓迎だが)

今回の要点は次の段落。

現時点の日本のデジタルコンテンツ市場では、需要供給曲線のキャズム、いわば「空白の価格帯」が存在する。「0円から数百円くらいまで」の価格帯。ここは「取引コスト」が商品(コンテンツ)自体の価格を上回ってしまう領域だから、取引が成立しにくい。(ただし、後述のように、時間が立てば解消するだろうと考えている)

これは気分の問題なのだ(じつに経済学的だ)。人々が気にするか、しないか。実際に、世の中の商品でも「小売価格の8割が流通コストです」なんていう商品はザラにある。みんな150円で500mlのお茶を買ってるでしょ? 買うときに「これ中身は10円なんだよね」とか考えないだろうし、あるいは、考えても「まあ、そういうもんだ」と納得/妥協して買ってるでしょう。

(※ちなみに上の英語版では「1500円以上なら送料無料のネットショップで300円のものを買う」といった感じの例で同様のユーザ心理を説明している)

そんなふうに「atomの流通コストには金を払う」くせに、現状の消費者心理は、「100円のコンテンツの代金を支払うのに、1件100円の手数料を支払う」のはイヤがる。なぜか? 簡単だ。「慣れ」の問題だ。「価値観の浸透」の問題だ。言い換えると「洗脳の進捗」の問題だ。

すでに「atomの流通コストに金を払う」という行為は浸透している。「何かをあちらからこちらへ運ぶ」という行為は大昔から「駄賃」という概念で定着している。でも、まだ「bitの流通コストに金を払う」という行為は定着していない。これは洗脳が完了していないからだ。bitをあちらからこちらへ運んでくることに対して「bit駄賃」が発生する、という概念が、まだ根付いていないということだ。「本質的にいって【bitの駄賃】という概念が経済学的にナンセンス」なわけではない。

考えてもみてくれ。「このコンテンツは無料で配布します。でも流通コスト分の100円は負担してください」という配賦形態があったとして、何がおかしいのだろう? 思い出して欲しい。ボランティアで何かの小冊子を作った人が「返信用封筒と切手を同封のうえ、封書でこちらの宛先まで、○○希望と書いてお送りください」ってのはネット以前の世の中ではよくやってただろう? いまは無料のホームページでPDFを配布すれば済んでしまうけど。(これについても厳密に言えば本人が機材費・通信費を負担していて、それは減価償却ベースで考えると決して「ゼロ」とは言えないものだけどね)

というわけで、「bitの流通コストに金を払う」という行為が定着するかどうか、というのは、あくまで「洗脳の進捗」という問題だ。時間の問題だ。時間が立てばいつかは「bitの流通コスト」を当たり前に考慮する世の中になるだろう。だが、いつになるかは分からない。現状がいつまで続くかわからない。けっこう長いかもしれない。だから現状の話をしよう。

というわけで、ここまでの議論では「現状では取引手数料が無視できない大きさであるため、ある水準以下の価格帯での取引が成立しない(需要供給曲線の交点がない)」ということを述べた。

いったん以上の議論までで終えておく。「だから現状の話をしよう」と言っておいて急に終わるなよ、ってつっこまれそう。気が向いたら続きを書くよ。

最後にひとこと。

こんなわけで「聞いてもらう場を求めているインディーズ・ミュージシャンが自己負担で1万円を払って楽曲をアップロードし、リスナーは無料でDRMフリーでダウンロードできる」というモデルのmusic forecast(mf247)は素晴らしく面白い試みだと思っている。

だが、「bitの流通コストに金を払う」という、atomにおける上述の「返信用封筒・切手同封」のような形になれば、役割を終えるサイトかもしれない。つまり、そのコストはミュージシャンではなくリスナーが負担するのが本来的では?ということ。そのほうが「受益者負担」という意味で本来的だと思う。
(正確には「パワーバランス」。お互いの「負担費用と享受価値」のバランスで決まりそうだ)

という話と、あるいは、mf247が広告収益などの間接的収入源を確率することにより、ミュージシャンもリスナーも無料利用可能になる、という状態のほうが先に実現するかもしれないけど。

以上、終わり。

よかったらコメントどうぞ。

こちらの記事もどうぞ: Pricing is a business myth

■余談

「取引手数料」は分解できる。不可避なコストには決済手数料がある。それより重要度は低いけども「探索・検討・意志決定のコスト」もある。

これらの「取引コスト」には、一定の条件において回避策が存在する。よくあるのは「取引を束ねて、決済手数料の単価を下げる」という方法だ。

例えばモバイル公式サイトの料金は1CPあたり月105円などの低価格から成立しているけれども、これは携帯電話会社が電話料金と一括請求することにより、決済手数料を一括して低く提供しているから実現可能だといえる。試しにコンビニ払いの収納代行サービスを使う場合の決済手数料を比較してみてほしい(その場合は顧客の利便性も大きく下がってしまうし)。

iTunesなども取引規模によるスケールメリットでコストを下げることにより1$単位の取引を可能にしていると思う。ほかにも以前ヨーロッパでデジタルコンテンツのマイクロペイメントサービスが始まったという記事を読んだ(やはり一定期間中の決済を束ねてコスト削減する方式だったと記憶している)。

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