analog

5月 27, 2009

移民自由化の件

カテゴリー: Japan, economics, politics, society — hidetox @ 1:03 am

私もリバタリアニズムとグローバリズム(良い意味で)は切っても切り離せない関係だと思います。

私は人種差別のほとんどない日本こそ、自由な移民の国を掲げて人類史の発展に貢献できる可能性があると思っている。

そのためには、我々が日本人という「既得権」を手放し、移民規制という参入障壁を撤廃し、世界の人々に日本市場への参入権を解放することだ。そのとき日本経済は爆発的に成長するだろう。

そう、かつての米国のように。

via: 自由で豊かな移民の国 « analog

と書きました。

ただ、実現は難しい、とも思います。

一国リバタリアニズムの前にグローバルなリバタリアニズムを置こう。「国の選択」ができる世界を目指そう。市場はつながっている。リバタリアンは自国政府に対してだけでなく他国政府にも規制の解除と自由の返還を要求しよう。そして自分にとっての費用と価値を測り、利益が最大化される国で生活しよう。

via: 海外移住:一国リバタリアニズムとグローバルなリバタリアニズム | アナルコ・キャピタリズム研究(仮)ブログ

「貿易の自由化」と違って「移民の自由化」の場合は「福祉・社会保障」の問題がネックですよね。

かつての米国のような低福祉国にならなければ、「受け入れ損」になりかねないかなと。つまり福祉へのフリーライダー問題です。

これが解決しないかぎり、自国世論が「移民自由化」に反対だと思うのです。

橘玲氏の言うように「人頭税」にしちゃえば移民が増えれば増えるだけ自国民は嬉しいんでしょうけれども。

実現可能なロードマップとはいかなるものでしょう?

5月 21, 2009

嫌煙家にも二種類いる

カテゴリー: economics, education, liberty, society — hidetox @ 12:39 am

嫌煙家には、個人的に煙草が嫌いな人と、「煙草は悪だ」と盲信して社会正義を代弁するかのごとき人がいる。

私は前者。物理的に煙が嫌いだ。拒否反応が出る。煙草の煙が目に染みて、涙が止まらなくなるのだ。だから、私は個人的にその場の喫煙者に禁煙をお願いする。あくまで煙を避けるためだ。

後者の人間は「喫煙は悪」だと信じているので、対話をする気がない。喫煙者に対して上から正義を説く。また、TPOを問わず「喫煙は悪」であり、妥協の余地がない。

こういう人は手に負えない。自分が100%正しいと信じているから、対話の可能性が断たれている。

正義どころか公害だ。外部不経済。煙草の煙よりも深刻な公害だね。

他人の権利や社会正義を代弁する人は思考停止に陥りやすい。

最大の特徴は「自分が当事者ではないことに出しゃばっていく」ということだ。

その行動様式は、全体主義国家で秘密警察に告げ口する小市民に、似て無くもない。「禁煙ファシズム」とは言い得て妙だ。

- 禁煙ファシズムを加速させるマスコミとJRは人殺し!?(前編) – 日刊サイゾー
- 「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる (「公私混同」原論):NBonline(日経ビジネス オンライン)

偉そうなことを書いてしまった。許してちょんまげ。
yyv3rqgzqnows0ll4vtwdad0o1_500

5月 17, 2009

言論の自由がない霞ヶ関

カテゴリー: Japan, bureaucracy, liberty, politics — hidetox @ 1:02 am

高橋洋一著『さらば財務省!―官僚すべてを敵にした男の告白』には、官僚は無謬主義であること、上司・先輩のやったことを批判するなどもってのほかであることなど、官僚の体質が書いてありました。

そのような体質では、外に向かって役所の批判をするなどタブーでしょう。高橋氏は、それをやりました。

その高橋氏は「窃盗犯」となりました。報道によると、本人が罪を認めたそうで、即座に勤務先の東洋大から懲戒免職されました。それにより「社会的制裁を受けた」との理由で、起訴猶予処分となりました。

なにか不自然な気がします。陰謀論を語るのは慎重にしなければなりませんが、あまりにも「それっぽい」。そして、「それっぽすぎる」こと自体が不自然です。本当の陰謀なら、こんな「分かりやすい」筋書きにしないでしょう。

【起訴猶予と引き換えに口止め!?】高橋洋一元教授、起訴猶予に – ぽぽんぷぐにゃん

本人がいまだに出てこないのは、やはり口止めされてるんじゃないですかね。

東洋大の本人の弁解を待たずしての懲戒免職も疑問ですが、起訴猶予と引き換えに、懲戒免職と口止めを検察(官僚側)に約束させられているのではないでしょうかね。

マスコミは高橋本人への追跡取材をしてほしいものです。消される可能性さえ感じずにはいられません。

100%同意するわけではないですが、その可能性がゼロでもないと思います。

ただ、もし陰謀だとすると、こんなに分かりやすい筋書きもない。もし陰謀があるとすれば、もっと巧妙に、秘密裏に圧力をかけ、表舞台から葬り去る方法を選ぶでしょう。まさにいま私が抱いているような疑いを国民に持たせるのは不利だからです。

したがって、もし陰謀があるとしたら、むしろ、分かりやすく「公権力」の恐ろしさを見せつけている、つまり高橋氏を「見せしめ」に、「第二、第三の高橋氏」を封じる意図がある、と考えるほうが自然です。

繰り返しになりますが、陰謀かどうかは分かりません。軽はずみに陰謀を唱えるのは、官僚に対して不当に汚名を着せる行為であり、慎まなければならないと思います。あくまでも「陰謀があるかどうかは分からない」というスタンスで、ただ、あまりにも「それっぽい筋書き」に見えてしまう点を指摘しました。

高橋氏の著書を読んだり、関心があったりすれば、同様の疑念を持つようになる人は少なくないでしょう。それを「あくまで可能性の一つ」として提示しました。私は本論で「どちらかというと陰謀だろう」とも言ってませんので、誤解の無いようお願いします。

さて、本題に戻りましょう。次に気になるのは木村盛世氏です。『厚生労働省崩壊-「天然痘テロ」に日本が襲われる日』を書いた現役厚生官僚です。

新型インフルエンザ、水際封じ込めはナンセンス|ニュース|ロハス・メディカル:

 厚生労働省が言っているのは、検疫による水際での封じ込め、ワクチン、タミフルの3点セットですよね。でも、こんなの新型インフルエンザに対してはナンセンスです。

(略)

――なぜそんなものを前面に押し出しているんでしょう。

専門家がいないからでしょうね。WHOもフェーズ3から4に上げる時、封じ込めに努力せよなんて言ってません。それなのに封じ込めできると言っているのは、国民を欺く行為です。もし彼ら自身が本気で可能だと思っているのだとしたらあまりに宗教的だし、頭に何か新種のウイルス感染でも起こしているのでないかと心配になりますよ。

めちゃくちゃタブーの官僚批判をしてますね。すごい勇気です。(といっても、中傷表現は擁護しません。J・S・ミルは「少数派は努めて誠実に、穏健に、議論しなければならない」と言いました)

――本を出して、何か本省から言ってきましたか?

 本当にフランクに言ってくればいいんですが、何も正面切っては言ってきません。それをせずにイジメのようなことばかり。今回もアマゾンの書評に一般読者を装って悪口を書き込んでいる程度でしょう。彼らは一人ひとりは非常に臆病な羊。でも群れると狼になって意地悪をするんです。

 私は別に何も悪いことをしていないので、辞めろと言われる理由はないんだけれど、いつ辞めてもいい覚悟ではいますよ。一方で、もし責任ある仕事をしろと言われるならば、それも運命と思って懸命にやるつもりです。

――腹をくくっている分、上の人たちからすると一番始末に困りますね。

困るでしょうね。腹をくくってないと動いていかない、ビクビクしていたら動いていかないですよ。

彼女の主張の正しさ以前に、このように主張したこと自体に賛辞を送ります。ほかの官僚も反論があるなら公然と反論すればいい。すでに省内から公共の場に言論が移っている(出版によって)のだから、その反論は議論を深めるために有意義でしょう。議論において反論が無いと言うことは賛成と見なさざるを得ないわけですし。

よって、彼女の言論活動を応援したいと思いますが、今後の活動(官僚としても、それ以外も)が何らかの圧力で妨げられないかと心配です。べつに「えん罪を着せる」といった陰謀があるとは言いませんが、本人もインタビュー中で述べているように、すでに「飛ばされ」ているようです。これは今後ひどくかもしれません。

そうなった官僚にも、政治任用(ポリティカル・アポインティ)によって首相官邸の直属で大きな仕事をする機会があるようです。高橋洋一氏も竹中平蔵氏と旧知の仲であったことが安倍内閣での政治任用につながった、と本人が書いています。ただし、政権が短命ならそれで終わり、という不確実なポジションです。

木村氏の今後に注目します(彼女の論敵が現れるのか、主張が正しさはどの程度か、など)。

それだけでなく、公権力に対する監視の目を持ち続けたいと思います。国民の監視の目が増えれば、日本の「官僚支配」は弱まるはずです。もし無関心であった方は、これを機会に政治に関心を持っていただければと思います。

5月 13, 2009

リバタリアンな婚姻制度

カテゴリー: law, liberty, society — hidetox @ 12:35 am

法とは自然に存在するものではない。人々が国家の権力(暴力)を制限し、自由を守るためのもの。人々がお互いに生きやすい社会を作るためのもの。したがって、我々はつねに「よりよい法」を「選ぶことができる」のだ。

あらゆるものを「当たり前」と受け入れず、ちゃんと考えてみよう。「当たり前」を疑い始めたとき、哲学が始まる。

リバタリアンな法哲学者森村進氏の婚姻制度に関する議論を紹介しよう。

・・・現代の大部分の国家は一夫一婦制だけを法的な婚姻の形態として認めている。それは同性間の婚姻も、一妻多夫も、一夫多妻も、群婚も、法的には認めようとしない。これは多様なライフスタイルに対して明確に偏頗な態度を取っており、リバタリアン的な中立性とは相容れない。この不平等を是正するためには、一部の国々で部分的に実現しているように、これらの少数派の婚姻の形態も法的に認めるという対策も考えられる。しかしそもそも婚姻という制度を法律に定めなければならない理由は明らかではない。実際には多くの法制度は色々な点で既婚者を独身者よりも優遇しているが、この優遇も法の下の中立性と衝突するから、もっと根本的に、婚姻という制度を法的には廃止すべきである。

婚姻という法的制度がないところでは、離婚もない。あるのは、共同の世帯を持つこととそれを解消することである。その共同生活者の権利義務関係は契約で定めることもできる。現在の婚姻制度では配偶者間の法的関係は強制法規によって大部分定められている。人は特定の相手とその関係にはいるかはいらないかの選択肢しかない。これに対して今述べた制度では、契約自由の原則から、共同生活者の法的関係は当事者が自由に決められる。

自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門 (講談社現代新書)

補足:

「契約自由の原則から、共同生活者の法的関係は当事者が自由に決められる」
自由を手にした上で、なお「ふつうの結婚契約」を結びたい人もいるだろう。心配には及ばない。すぐに「ふつうの結婚契約」という契約書のひな形が出てくる。いま企業が使っているNDA(秘密保持契約書)だって、ほとんどひな形のまま使っているのだ。

当事者間で自由な契約内容を決められる、というのが契約自由の原則だ。だから、いまの日本国内法が定める婚姻契約を再現する契約書を作れば、何の問題もない。また、そのような契約書はニーズが多いだろうから、すぐに1通数百円程度のひな形として販売されるだろう。

そのうえで、個別のニーズのために契約内容を変更する自由が得られる。たとえば婚前契約で財産権を定める、といった事例は今でもある。遺産相続でもめるのも、よくある話だ。離婚に伴う係争も多い。婚姻にまつわるトラブルは多いと言わざるを得ない。

そもそも普通の善良な人々にとって契約とは「トラブルを事前に防止するためのもの」なのだ。契約当事者間でお互いのニーズを擦り合わせて合意しておくのは当然じゃないか。

ところが、契約内容に制限を課す強制法規は、人々から契約の自由を奪っているのだ。

契約自由の原則を奪う強制法規は、婚姻にまつわるトラブルを増やしているかもしれない。

婚姻契約が政府による強制法規であるべき正当な理由など無いのだ。

5月 12, 2009

政治に対してナイーブな日本国民

カテゴリー: Japan, politics, society — hidetox @ 12:59 am

小沢辞任に思うこと – 輪(わ) -Come and See the Blood in the Street.

「輪(わ)」の筆者(yehl431氏)に同意です。安全保障や社会保障へのスタンスは異なりますが、下記の文章には、とくに共感します。

結局、日本国民は政治に対してあまりにもナイーブなのです。

他にも、社会福祉国家を実現することを理想とする人がいた場合に、いきなりスウェーデンになることは困難でも、最低限のセーフティネットの拡充(それこそ給付額を1万円でも上げる等)の実現は十分あり得ます。

これらの例が、その理想と現実との落差を理由として、くだらないものだとは言えないと思います。理想は持ちつつも現実的な積み上げを為すことにより状況を少しでも改善するというスタンスは、経済活動でも、個人の生活の場面でも普通のものでしょう。

悪いところを少しずつでも直していって、より良いものを実現する。こんな当たり前のことを、政治について考えている人があまりにも少ないと思います。だから、政治家に対して清廉潔白であることを必要以上に求めるのであり、小泉純一郎のようなポピュリストが「自民党をぶっ壊す」と言うとあっさり信じてしまう。

政治に関心を持つ人が増えて欲しい。なぜなら、それは「他人事(ひとごと)」ではなく「自分事」なのですから。

人ごとではない。

私たち、一人ひとりが、行動を変えるしかない。

政治参加意識を高め、発言し、投票する。

あるいは、立候補したり、政治献金する。

自分の希望を叶えてくれる政治家を選ぶ。

必要なら、育て、支援する。

そういう一人ひとりの行動が必要です。

一人ひとりの行動が変わらなければ、

via: 政府という「独占企業」 « analog

5月 10, 2009

Orwell’s Rules for Writers

カテゴリー: art, literature — hidetox @ 8:09 pm

Orwell's Rules for Writers

via humachine | nik guinta

5月 3, 2009

政府という「独占企業」

カテゴリー: bureaucracy, economics, liberty, politics, society — hidetox @ 2:09 am

これらは、資本主義がそれなりにうまく機能しているかぎり、経済のルールで安全が担保される可能性がありますが(安全でない食物は売れないでしょうし、自動車の安全性は、機能面ではメーカーが、操縦面では不法行為による損害賠償システムが存在することにより担保され得ると考えます)、政治については、上記の例において資本主義が果たしているような潤滑油の機能を担うものがありません。

via: 政治家を信じよう(ただし条件と期限をつけて) – 輪(わ) -Come and See the Blood in the Street.

政府という存在の最大の問題は、そこに「代替(alternative)」のないことです。

市場は公平です。レストランがマズかったら、そこに二度と行かなければいい。

誰もあなたにマズいレストランに行くことを強制できません。

私たちには「選択の自由」があります。

しかし、政府の提供する商品やサービスは、別です。

社会保険や年金が非効率だからといって、強制加入ですから、あきらめるしかありません。

政府が提供する商品・サービスを「要らないから、払わない」ということはできません。

税金という形で強制的に「代価」を徴収されてしまうのです。

政府は人々に取引を強制します。

政府は独占的な存在です。

政府は人々から「選択の自由」を取り上げます。

「自由」とは「強制のないこと」である、とハイエクは定義しました。

政府は人々から「自由」を奪う存在なのです。

そんな政府を弱体化する方法は?

政治です。

政府と政治を分けて考えましょう。

政府と政治が癒着している(政官癒着)としたら、それは有権者のせいです。

有権者が「小さな政府」を望めば、政官の癒着をなくすことができる。

もちろん、有権者には「自ら立候補する」という手段もあります。

人ごとではない。

私たち、一人ひとりが、行動を変えるしかない。

政治参加意識を高め、発言し、投票する。

あるいは、立候補したり、政治献金する。

自分の希望を叶えてくれる政治家を選ぶ。

必要なら、育て、支援する。

そういう一人ひとりの行動が必要です。

一人ひとりの行動が変わらなければ、

政官癒着は無くならないし、

政府という「独占企業」は巨大なままです。

私たちは政治家を信じることが必要です。

そのためには、信じるべき政治家を見つけなければなりません。

いなければ、育てるか、自ら立候補するか。

4月 19, 2009

政治資金規正法

カテゴリー: bureaucracy, law, liberty, politics, society — hidetox @ 9:41 pm

民主党が政治資金問題第三者委員会を立ち上げましたが、早速そのヒヤリングの中身を観ることができるようになっています。

内容は、細かい論点について、総務省の担当者と委員が議論しているものですが、委員からのつっこみに対して、担当者はタジタジになっているように見受けられました。特に、櫻井敬子委員の、「構成要件があいまいで、予測可能性に欠ける部分があるのではないか」との趣旨の指摘には、完全に答えに窮しているかのようでした。

これでは、結局のところ、政治資金規正法は、まともに解釈・運用するつもりで作成・改正されたのではないのかもしれないのではないか、つまりはザル法として、ただそこに在ればよいのであり、どの政治家もまともに守る気など最初からサラサラなかったのではないか、との疑問を抱かれても仕方ないと言えるでしょう。

via: 民主党の政治資金問題第三者委員会について – 輪(わ) -Come and See the Blood in the Street.

「予測可能性」は本当に大事です。

一言付け加えると、守れないルールがあると、そもそも政治献金を受けること自体が恐ろしくなるはずです。しかし、そうならずに「どの政治家もまともに守る気など最初からサラサラなかった」ということは、官僚・検察に太いパイプを持つことによって身を守ることができる政治家の体質も示唆する。つまり政官癒着ということです。

政治資金規正法については賛否両論ありますが、私は「個人献金も企業献金も完全自由化したうえで、企業の会計基準のように記録のルールを決め、開示を義務づけること」が望ましいと考えます。

穏健な立場としては「当局の開示請求にもとづき」となるでしょう。しかし、私はインターネット上での公開を義務づけても良いと思う。(企業決算の官報のように)

いまは政治献金そのものが悪であるかのような価値観にもとづく法制度だと思います。それが健全な民主主義の発想とは思えない。

金を集めることは悪ではない。そのすべての流れが明らかならば。

以下の指摘はもっともだと思います。

政治とカネの本当の話(1) (田中良紹の「国会探検」)

 官僚が国民を支配する要諦は「守る事が難しい法律」を作る事である。車の法定速度を守ったら渋滞が起きる。誰も守っていないのが普通である。警察は普通は見逃している。それで国民生活に支障はない。しかし時々警察は捕まえる。運転手は「運が悪かった」と思う。この時々警察の都合で捕まえるところに官僚の「裁量」が働く。官僚は法律違反を常に見逃しながら、都合で取り締まる。警察に歯向かう人間は取り締まられ、警察にゴマをする人間は見逃される可能性がある。

 スピード違反だけの話ではない。公職選挙法も「厳格に守った人間は必ず落選する」と言われるほど「守る事が難しい法律」である。「お目こぼし」と「摘発」は警察の思いのままだ。税金も「何が脱税」で「何が節税」かの区別は難しい。政治資金規正法も「守るのが難しい」法律である。みんなで同じ事をやっていても、取り締まる方が目をつけた相手は「摘発」され、同じ事をやっているその他は「お目こぼし」になる。これで政治家はみな官僚に逆らえなくなる。

 政治資金規正法を厳しくすると、最も喜ぶのは官僚である。これで政治が官僚より優位に立つのを抑える事が出来る。政治が力を持てばいつでも「摘発」して見せ、メディアに「政治批判」をさせ、国民を「政治不信」に堕ち入るようにする。「政治不信」こそ官僚にとって最も都合が良い。これで政治家を官僚の奴隷にする事が出来る。その事に協力してきたのがかつての野党とメディアである。

 「政治は汚い」と国民に思わせるように官僚は仕組んできた、それに応えてメディアは「政治批判」をする事が「権力批判」だとばかりに、口を極めて政治を罵倒し、官僚と言う「真の権力」にゴマをすってきた。国民はこの国の権力の本当の姿を見せられないまま、政治に絶望してきた。

一般論としても、裁量の余地が少ない立法ほど優れているのではないでしょうか。当局の裁量の余地が入らない法規制を望みます。政治資金規正法は、その点でダメなザル法なのです。

なお一点付け加えておきます。

私はリバタリアンです。そもそも国家は最小であるべきだと考えています。そこに誘導すべき利益などない。大した規模の公共事業が存在しないし、利権を生むような規制もない。そういう自由な社会を理想と考えています。その前提では、企業献金によって「誘導されるべき利益」など無いのだから、企業献金を禁止する必要などないのです。

過渡的な問題としては難しい面がありますけれどね。私も現在の国家規模(財政規模)では、たしかに市場の公正さを損ねる恐れがあるとは思いますよ。

ただ、企業献金を禁止すべきだという人々には、要するに「大きな政府」が良いと考えている人も多いようですね。

その点では、考え方が根本的に違うのでしょう。

国家は人々を守るのではなく、国家こそ人々にとって最も有害な存在だと考えますから。

国家から利権を奪ったとき、政治家には利権が少なくなる。つまり政治家が汚い仕事だと思うべき理由も小さくなる。そこで人々が政治家に活動資金を寄付する。むしろ政治家に税金で資金を提供する必要はない。

ではなぜ企業が献金するのか、という人がいる。企業は利益が目的なのだから云々、という議論。それはまったく意味のない議論だ。ならば利益の1%を慈善事業に投じている企業の存在をどう考えるのか。もちろんブランディングなどの目的があるだろう。あれを禁じるべきで無いならば、利益の1%を政治家に寄付することを禁じる理由があるのだろうか?

4月 16, 2009

「某氏の文体の特徴」とデビュー作

カテゴリー: book, critique, literature — hidetox @ 8:23 pm

某氏の文体の特徴 – 福耳コラム

最後のほうで一行だけ、太字で「嘘つき!」とか彼女が叫ぶ。

思わず、吹き出した。つい先日、彼のデビュー作を読んでいた。

すでにデビュー作に現れていることを確認した。人間は一人で生まれて死んでいくという世界観が。

最新、といっても数年前の長編では、最後に人と人が密接な結びつきを示す。あれは大きな変化というか、デビュー当時の作品からは想像できない。つまり、人はどこまでいっても他人だという個人主義の徹底からは。

歳を取っても人間は大して変わらないが、変わるところもある。

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ(追記)

カテゴリー: education, philosophy, society — hidetox @ 7:40 pm

赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』という記事では、わざわざ次のように書いたが、それでも残念ながら気を悪くした人がいるようだ。

俺自身はこの考えが絶対に正しい、正義だ、などとは考えていない。リブログした人の中にも、いろんな考えの人がいるだろう。ただ、無自覚に「筋の通らない無邪気な暴力行為」をしている人がいるかもしれないから、指摘したのだ。そもそも倫理や道徳など人それぞれであるべきだ、というのが私の価値観だから、あくまで消極的で限定的で、押しつけではなく、「あなたは自分で気付いていないかもしれませんが、こういうことをしていませんか?」と指摘したに過ぎない。だから、誰でもこれを読んで気を悪くしないで欲しい。

まあ、Tumblrで引用された一部分だけを見て反応した人も多いのだろう。そういうものだ。それを批判するつもりもない。ちゃんと原典を読んでくれない人も多いのだろう。

それで感情的な批判をしている人もいて、中身のない罵倒を聞く耳など持たないが、筋の通った反論は傾聴するので、ぜひ筋の通った反論を聴きたいと思う。

それとは別に、主張を誤解している人もいるようだし、ここで補足しておく。

提起した問題は簡単なことだ。「これを喧伝する人は、自分が彼の立場になったとしても堪えられるのか?」という問いだ。

1)この答えがYESなら、恥じることなく喧伝すればいいだろう。(だから、この1に該当する人が腹を立てているとしたら、その理由が分からない。あなたを批判していないのだ。原典を読まずに誤解したケースだろうか)

2)この答えがNOなのに喧伝する人は、筋が通っていない。個人的には「自分に都合のいいように正義を曲げる人」と思える。とはいえ、それも言論の自由であり、尊重するのだが。「お互いに分かり合えない価値観の違いは認め合うしかない」のだから。(わざわざこう書いたのだから、批判や反論はあっていいと思うが、感情的な罵倒をする人は何を考えているのだろうか、その心理状態が、じつに興味深い)

3)答えがNOだが、その引き受けるべき正義について無自覚な人もいるだろう。それを指摘したのが、例の記事では中心的なメッセージだった。これは「説得」だった。(「ただ、筋の通ってない人、つまり自分の無神経さ、鈍感さを自覚してない人は、これを読んで気付き、考えを改めてくれたはずだ」)

なお、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」を規制せよ、などとはまったく言っていない。言論の自由だ。私は、むしろ普通の人よりもプライバシーを尊重していないといえるだろう(リバタリアンだし)。だから、「他人の醜態を撮影して喧伝する行為」への批判はプライバシー権の観点ではない。

もちろんグーグル社に対して「ストリートビューでうちの庭の中が見えるのは困る」と抗議するのは自由だし、権利侵害がある場合には修正も必要だろう。しかしグーグルに修正を強制する権利はだれにもない。憲法に定める表現の自由は民主主義が成り立つための絶対条件であり、安易に例外を作ってはいけないのだ。他人の言論を制限しようとする「権利のインフレ」は表現を窒息させ、ウェブを不自由にするだけだ。

via: 「権利のインフレ」が表現を窒息させる

では、プライバシーとは関係ない議論としたら、どういう議論だったかというと、むしろ社会主義者が好むような道徳論、正義論に近い。「もし自分があの人の立場だったら」「立場の交換に堪えられるかどうか」という論法のだ。あくまで法規制などではなく、そういう個々人のモラルの範囲の議論をした。目的は批判ではなく説得だからだ。そういうことをする人を減らしたいと思ったのだ。キリストは「して欲しいことを他人にもしろ」と言ったし、孔子は「して欲しくないことは他人にもするな」と言った。そういうことだ。

以上、『赤の他人の醜態を写メする悪意のない人々の恐ろしさ』への補足とする。

古い投稿 »

Powered by WordPress