Stamp Tax: 第2の印紙税

このエントリーを含むはてなブックマーク August 18th, 2008

日本には印紙税という「けったい」な税がある。税収は1千億円程度のようだ。こんなの廃止してしまい、消費税か法人税を増税すればいい。逆に言えば消費税増税するときには、印紙税を廃止してもらいたい。というか消費税導入時に廃止すべきだった。

そして、日本には第2の印紙税がある。請求書あたり80円の切手という印紙税。つまり郵便料金である。ほとんどの請求書は80円切手を貼った封筒に入れて郵送されている。かつて郵便は国営だったわけで、これは実質的に税金に近かった。だが、もはや郵政公社も民営なのだ(ってのは関係ないけど)、請求書を電子化すれば無駄な郵便料金を払わなくていいじゃないか。どんどん電子化しよう。困るのは郵政公社だけだ。

とはいえ現時点で紙の請求書を全廃しちゃうと取引先はともかく自社だけ考えても税務査察が入ったときになんて言われるかわからないから怖い。税務署が明確に認めると示せば安心して電子データのみ保管するのだが。

逆に考えると、使いやすい電子署名(PKI)が導入されない理由は、郵政族の抵抗かもしれない。電子署名とEDIが普及すれば、税務調査(査察)のコストは大幅に削減されるだろう(クロの企業には関係ないが)。大量の証憑類を保管するコスト(漏洩リスクも含む)だって削減される。それで損をするのは郵便局だ。請求書と給与明細がすべて電子化されたら郵便局はけっこう痛いんだろう。

というわけで、請求書に無駄なコストがかかっているので、印紙税の廃止と電子化を推進してもらいたい、という話。

余談:

印紙税は請求書だけでなく、契約書全般にかかってくる。1万円に対して200円、100万円に対して400円の課税。さらには200万円で1,000円に跳ね上がり、500万円では1万円になる。なんだこの意味不明な税率は。税率ではなく印紙の額面にあわせて課税価格帯を決めたんだろうけど。消費税5%なのに印紙税2%ってどんだけ。

経済学的に考えると、商取引に関する文書にペナルティを課すのが印紙税だ。商取引のトラブルが増える方向に制度設計しているのを理解しているんだろうか。少額取引は契約書などの取引コストをかけられないというのに、さらに余計な取引コストである印紙税を課すという。実際「印紙税がもったいないから契約書は省略しましょう」なんていう話があるわけで。

取引コストを増やすことに何か意味があるんだろうか。取引に対して課税したければ消費税がある。印紙税は有害な制度だ。望ましくないことにペナルティを課し、望ましいことにインセンティブを課す、これが正しい制度設計ではないか。

ううむ、合法的に印紙税を回避するためのソリューションを売るソーシャルベンチャーでも立ち上げるべきか。それが問題視されて議論になり印紙税が廃止されれば万歳だ。

Showbiz: 映画ビジネス

このエントリーを含むはてなブックマーク August 16th, 2008

映画ビジネスデータブック 2008 (キネ旬ムック)」がおもしろい。巻末データ集を見ると映画業界の閉塞感がよくわかる。総興行収入は一段落しているが下がってはいない。問題は鑑賞人口が30年来横ばいであること。見方を変えれば30年間で客単価を30%アップしたともいえるのだが。主要各社トップのインタビュー掲載などもあり面白い。

それにしても成熟病。インサイダーは自覚できないものだと思うが、イノベーションのジレンマに陥っているようだ。「マーケットに対して製作本数が多すぎる」という業界人の発言がある。まるで衰退産業のようだ。しかし映画産業が衰退期にあると結論を出すのは、まだ早いように思う。新市場を立ち上げることが可能かもしれない。ただ、その新市場がもはや「映画」という概念に収まるかどうかは分からないし、たびたび伝統、仕事のやり方を変えたくない保守的心理が変化の障害になるのも事実だから、いまの映画人が適応できるのか、空気を読まないアウトサイダーにより新しい「映画」産業が創出されるのかは分からない。

鷹の爪GOLDEN EGGSほしのこえへ注目する人は、新しい映画ビジネスのビジョンを探したいのだろう。

 また、デジタル・シネマによる、超インディペンデントな作品も今後は増えることだろう。デジタル機材が高精度、安価になることから、劇場から非劇場へと映画の場が広がっていくだろう。今後、映画の境界、垣根はどんどん曖昧になっていくのではないだろうか。
「映画ビジネスデータブック 2008」p.22

ポニョやスパイダーマンなどはレッドオーシャン。大資本の独壇場。それ以外のプレイヤーによる新市場型破壊、ローエンド型破壊は実現するか。産業全体としては、もはやハイエンド(大作)ではなく、ローエンド(インディ、単館、ネットなど)にイノベーションがあるはずだ(おそらくは)。ならば、そこを考えたい。

以下、門外漢なので思いつきに過ぎないが、映画業界人のヒントにでもなればよいと思って極端なアイデアを書いておく。

あるアイデア

基本となる考え方は「マネー・ボール」。ホームランを狙わず、ノーアウト1塁から3アウトを有効に使ってランナーをホームに還す野球のように。最初は企画をローコストにテストする。リスクコントロール。現状は掛け金の単価が大きすぎるのでは。小さくたくさん投資して、あたったら追加投資。

一定の条件を満たすクリエイターに無審査で「特報」制作費をばらまくというのはどうだろう。1件100万〜500万円くらいのコール・オプション。対価は優先的かつ排他的な投資交渉権。新しい作品の供給源を抑えることになる。良い作品の獲得競争という観点では情報の独占は有利。あるいは、パトロン役のプロデューサが若い監督に金を渡す、といった非公式な活動が以前からあるのかもしれないが、そういうことを組織的に、モンテカルロシミュレーションなどのファイナンス理論にもとづいて、きちんと計算されたリスクの中で実行すればどうだろうか。パイロット版は予告編(特報)としてネット上で配信し(※ネガドンという例がある)、人気投票により製作を決定するという具合。投資組合までいかなくても予測市場のメカニズムを導入して集合知に頼ってみるのも面白い(※参考:はてなアイデア)。それで100万→500万→3000万→1億5千万といった具合に段階的に投資し、段階的に市場に投入して反応を検証していけばいい。リスク管理とはそういうことだ。このやり方で作られる映画は、単なる企画書の段階で2億円集めて作ったものよりも確率的に良いものになる可能性が高いだろう。同じ2億の使い方として成功確率が高まるんでは無かろうか。(※この資金は個々の映画の製作委員会とは別の提供者を必要とする。新たな特報試作ファンドとか)

繰り返しになるが、ここで対象としているのはローエンド、そもそも大金がかからない映画。ネガドンは個人的なリスクテイクにより生み出されたが、そこをファイナンスで仕組み化する。1分以内の「特報」が年間100本つくられて、ネット上で反応を確かめられて、有望なものは追加投資されて実際に中身が作られる。そういう状態を作るのに数億円かけたとして、それが無い状態で投資される全案件の総額(数十億円)の期待リターンがどれくらい変わってくるか、という話。理論上はオプションの活用によりリスク低減できる可能性がある。実際にはオプションのコストと効果による。(※私は映画ビジネスの詳細なデータにアクセスできないので、オプションの有効性がどれくらいか推定できない)

別のアイデア

映画の値段(1,800円)はそのまま、尺を30分にしてみる。観客にとって、時間単価は高くなるが、それは割高感というネガティブ要素になるだろうか(※値下げしたほうがいいかもしれないがこのアイデアの本質ではない)。むしろ時間拘束が短い、という付加価値ではないか。また、制作コストのうち時間比例の部分は削減される(※それが3〜4分の1になる効果がどの程度かは知らないが)。時間拘束の短さによるカジュアルユーザ取り込みという新市場開拓(※ニンテンドーDSのカジュアルゲーム市場開拓のイメージ)。尺が短ければ2次利用もしやすくなるのではないか。成功した作品はシリーズ化により利益を重ねていく。

さらに別のアイデア

バリューチェーンの高付加価値部分について専門下請け企業なって高収益を目指す道。資金調達と回収可能性、つまりマーケット規模の点で、日本市場と世界市場を比べるまでもない。ハリウッドに主導権を握らせて、日本の映画産業はハリウッドの下請けになる。キャスト、スタッフ、コンテンツなどの提供。PCメーカーよりも台湾の下請け企業のほうが儲かっているように、かならずしも最終製品のパッケージングを手掛ける企業が高収益になるわけではない。

以上のアイデアは組み合わせも考えられる。

私は門外漢だから業界事情に疎く、どのような試行錯誤がなされているのか知らない。ただ、こういうことをやっていれば、何かしら門外漢にも見える変化はあるだろうと思う。それが見えないので、あまりこういう試みは実行されていないのかなと思っている。

私はWebビジネスを専門にしているから、もし映画業界人の人がWebを活用した展開(予測市場など)に興味があればコンタクトしてください。協力できるかもしれません。連絡先はです。

Hopelessful: 無力感と絶望と希望と

このエントリーを含むはてなブックマーク August 16th, 2008

「スカイ・クロラ」と「希望の国のエクソダス」に見る「希望」のかたち。

この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない。

 でも歴史的に考えてみると、それは当たり前だし、戦争のあとの廃墟の時代のように、希望だけがあるという時代よりはましだと思います。九〇年代、ぼくらが育ってきた時代ですが、バブルの反省だけがあって、誰もが自信をなくしていて、それでいて基本的には何も変わらなかった。今、考えてみると、ということですが、僕らはそういう大人の社会の優柔不断な考え方ややり方の犠牲になったのではないかと思います。
 愛情とか欲望とか宗教とか、あるいは食料や水や医薬品や車や飛行機や電気製品、また道路や橋や空港や港湾施設や上下水道施設など、生きていくために必要なものがとりあえずすべてそろっていて、それで希望だけがない、という国で、希望だけしかなかった頃とほとんど変わらない教育を受けているという事実をどう考えればいいのだろうか、よほどのバカでない限り、中学生でそういうことを考えない人間はいなかったと思います。

希望の国のエクソダス』p.314-315

 今、映画監督として何を作るべきか。私は、今を生きる若い人たちに向けて、何かを言ってあげたいという思いを、強く抱くようになりました。
 彼らの生きるこの国には、飢餓も、革命も、戦争もありません。衣食住に困らず、多くの人が、天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました。しかし、裏を返せば、それはとても辛いことなのではないか──と思うのです。望んで天国に逝った男が数日で飽きてしまった、という寓話がありますが、欲しかったものを目の前にした瞬間、そのものの本質が立ち現れる。人間とは、贅沢なものです。

via: 株式会社IGポート : 日本テレビ プロダクション I.G提携作品 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(監督:押井 守)製作決定のお知らせ 人気小説家・森 博嗣の原作「スカイ・クロラ」シリーズを アニメーション映画化 : News2u.net

 この映画は、主人公のモノローグと共にクライマックスを迎えます。
 それでも……昨日と今日は違う 今日と明日も きっと違うだろう いつも通る道でも 違うところを踏んで歩くことが出来る  いつも通る道だからって 景色は同じじゃない それだけではいけないのか それだけのことだから いけないのか これが、この映画のテーマであり、若い人たちに伝えたいこと。
 たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う。木々のざわめきや、風のにおい、隣にいる誰かのぬくもり。ささやかだけれど、確かに感じる事の出来る事を信じて生きてゆく──。そうやって世界を見れば、僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない。同じ日々の繰り返しでも、見える風景は違う。その事を大事にして、過酷な現代を生きてゆこう。
 僕はこの映画を通して、今を生きる若者達に、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな「真実の希望」を伝えたいのです。

via: 株式会社IGポート : 日本テレビ プロダクション I.G提携作品 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(監督:押井 守)製作決定のお知らせ 人気小説家・森 博嗣の原作「スカイ・クロラ」シリーズを アニメーション映画化 : News2u.net

村上龍『希望の国のエクソダス』で語られる「希望」は真に迫る。それは覚悟と決断と実行により獲得される「希望」だ。もちろん、この小説で示される希望のかたちは創作に過ぎず、これが実現するかどうかなど問題ではない。希望とは自らの手で未来を切り開く過程にこそあるのかもしれないと思った。私はこの小説を読んでわくわくした。現実にこんなふうに閉塞感が打開され、未来のビジョンが示されたらどうだろう。しかも自分がそれに貢献できたら。そう思うとゾクゾクした。自己効力感。これこそが「希望」だ。

一方、「スカイ・クロラ」はどうか。監督は若者へ希望を語ったと言う。しかし、私には押井守が語る「希望」が分からなかった。私に分かったのは、「押井守は希望がないと思っていて、それについて観客は自分で考え、悩むべきだと考えているようだ」ということだった。厭世的で暗澹たる問題提起である。無力感。希望の何かが示されたわけではない。

たとえ、永遠に続く生を生きることになっても、昨日と今日は違う。木々のざわめきや、風のにおい、隣にいる誰かのぬくもり。ささやかだけれど、確かに感じる事の出来る事を信じて生きてゆく──。そうやって世界を見れば、僕らが生きているこの世界は、そう捨てたものじゃない。同じ日々の繰り返しでも、見える風景は違う。その事を大事にして、過酷な現代を生きてゆこう。

これのどこが「希望」なのだ?

余命宣告された人間が、残りの時間をどう「生きる」かを考える、そんな映画のメッセージにふさわしい。それはたしかに「希望」の一種ではあるが、未来を生きる若者へ向けた「希望」ではない。少年、若者が「老成」してしまっている社会の閉塞感を「希望がない」と問題にしているのだろう。ならば、現状肯定的で受動的で「気の持ちよう」でなんとかしようという「希望」など、否定すべき対象であってもビジョンにはなりえない(※)。無力感からくるニヒリズムでしかない。

この閉塞した社会に必要なのは「自分たちには世界を変える力がある」「自分たちで世界を変えよう」という内容の「希望」だ。

(※仏教、禅の「悟り」に通じる点があると思う。全面的に否定するものでもない。ただ、未来を生きる若者に対して提示すべき希望ではないというだけだ)

むしろ「生きることの意味の無さ」が伝わってしまうような映画だ。べつに「これが生きる意味だ」と示してくれる必要はない。ただ、同じ考えさせるにしても、もっと前向きに考えさせようとは思わなかったのか。対象が「若い人」なら、もう少し親切でもいいだろう。あるいは「死に至る病」を観客と共有したいのだろうか。

via: analog | The Sky Crawlers: スカイ・クロラ

若者に示すべきは「自己効力感」だ。自分の手で未来を変えることができるというビジョン。それこそが希望だ。

現代日本に希望が不足していることなど、言われなくても、よほどのバカでもない限り分かっているのだ。問題提起だけで終わらないで欲しい。希望の形を示せとは言わない。たかが映画にそんな期待はしない。ただ、希望に向かって必死に生きる主人公の格闘を、前向きに描いて欲しい。希望の形は様々だが「前向きに生きる」という一点は共通するだろう。

勝てないと分かっているティーチャーに挑むことが「希望」の象徴として描かれているのだろうか。それはある種の哲学的、文学的な表現としては成立するとは思うが、「今を生きる若者達に、声高に叫ぶ空虚な正義や、紋切り型の励ましではなく、静かだけれど確かな『真実の希望』を伝えたい(※押井守発言)」という意図ならば、病的に倒錯した表現だ。

問題は、「勝てないと分かっている相手に挑むこと」が「前向きな希望」として提示されているのか、という点だ。「挑む」という行動だけを観れば「前向き」であるかのように見えてしまうが、「勝てないと分かっている」ならば、それは「無力感」そのものである。はっきりと「自殺」だ。あるいは、「勝てるかもしれない」と少しでも考えていたとするならば、これは「自己効力感」といえそうだが、しかし、その芽をすかさず摘み取る展開(※)は、やはり病的に倒錯していると思う。

(※一方で、その余りにもあっさりした幕引きは、ネガティブなカタルシスをもたらす芸術的表現としては秀逸だとも思う。この点で、私はこの作品そのものについて否定的ではない)

観客は嫌と言うほど出口のない苦悩を味わう。劇場を出るときには気を病んでしまう人もいるだろう。そういう作品として良くできているからだ。あらゆる意味で救いがない世界。出口のない迷路。現代病。サルトル的苦悩。

via: analog | The Sky Crawlers: スカイ・クロラ

鬱映画としては良くできている。監督が「現代の絶望を表現した」と言えば拍手しよう。その意図は完璧に実現されている。一方で、監督の意図が「若者へ希望を語る」ことだとしたら、かなり失敗していると思う。

「希望」の提示が倒錯した表現になる、それ自体が深刻な現代病の症状であるようにも思う。

現代に必要な「希望」は、もっと率直な「希望」だ。

The Sky Crawlers: スカイ・クロラ

このエントリーを含むはてなブックマーク August 15th, 2008

何度も死にたいと思い、いまだその病理を抱えたまま生きている人が作ったかのような物語。

「崖の上のポニョ」が「宮崎駿の夢、妄想、垂れ流し映画」だとするならば、「スカイ・クロラ」は「実存への嘔吐感、この世界への呪詛、自殺願望、垂れ流し映画」だ。

「崖の上のポニョ」は「神経症と不安の時代に、宮崎駿がためらわずに描く、母と子の物語」と謳われているが、「スカイ・クロラ」は「神経症と不安を、押井守がためらわずに描く、愛と生と死の物語」だ。

もし、この映画が単館上映ならば、上出来な映画だったと素直に思う。観客は嫌と言うほど出口のない苦悩を味わう。劇場を出るときには気を病んでしまう人もいるだろう。そういう作品として良くできているからだ。あらゆる意味で救いがない世界。出口のない迷路。現代病。サルトル的苦悩。

地獄とは他人である<L’enfer, c’est les Autres.>。そのうえ、死においては、すでに賭けはなされたのであって、もはや切り札は残されていない。わたしを対自から永久に即自存在へと変じさせる死は、私の実存の永遠の他有化であり、回復不能の疎外であるといわれる。

via: ジャン=ポール・サルトル - Wikipedia

例えば「ミナ」(1993年、フランス)は「鬱を完璧に描いている映画だ」と経験者は語っていた。死にたくなるときの気持ちがリアルに描かれていると。(※ちなみに、今回の批評はその人との議論にもとづく)

単館系というのは「観たい人が観る映画」だ。単館系なら、どんなに観客の精神を病む映画でも構わないだろう。うっかり観てしまう人など、ほぼゼロなのだから。その点で「スカイ・クロラ」がもし単館系なら、上出来な作品だと思う。

しかし、このような「自殺願望垂れ流し映画」が全国で大規模に上映されることには不安を感じる。「崖の上のポニョ」とは違う意味で、こんなものが全国の映画館で観られるというのは、とんでもないことだと思う。

人間はみんな「終わり無き日常」の迷路を彷徨っていて、迷路に気がついたところでそこから脱出するでもなく、何か事件があったように見えたとしても結局何も変わらない。

それってリアルだけど、はなはだ辛気くさい話で、押井守は鬱映画の巨匠だという思いを再確認しました。

via: たけくまメモ : スカイ・クロラ見てきた

押井守監督が「鬱映画の巨匠」として完璧な映画を作る日が来たら、、、恐ろしい。こういう映画を作るなら、アングラに潜ってもらいたい。数十万人にみせるものではないと思うのだ。そして、そのほうが監督の評価も保てると思う。いまのまま鬱映画を作り続けては、いずれ「客が呼べない監督」に成り下がってしまうのではないかと心配だ。

「愛と生と死の物語。若い人に、生きることの意味を伝えたい」と熱く語った。

via: asahi.com:鬼才・押井守、次回作を熱く語る - コミミ口コミ

むしろ「生きることの意味の無さ」が伝わってしまうような映画だ。べつに「これが生きる意味だ」と示してくれる必要はない。ただ、同じ考えさせるにしても、もっと前向きに考えさせようとは思わなかったのか。対象が「若い人」なら、もう少し親切でもいいだろう。あるいは「死に至る病」を観客と共有したいのだろうか。

作品自体はすごい。すごいから問題なのだが、ともかく作品はすごい。監督は作家としていい仕事をしたと思う。

問題は、コンテンツに対するコンテキスト。作品に対する、その届け方。

作品は社会的な存在だ。作品が社会に影響を与えることもあるし、社会が作品に意味を与えることもある。それゆえ、作品は危険性を認識した上で適切な展示をなされるべき。「スカイ・クロラ」は適切な展示をなされていない。あるいは、これが適切だというのならば、「死にたければ一人で死んでくれ」と言わざるをえない。自殺願望垂れ流し映画には、単館上映が相応しい。

いくら客が呼べる監督だからって、節操なく金儲けに走りすぎでは?

(※言うまでもなく、この批判は監督や作品自体へ向けたものではない)

つづく

※追記

本文中にて、

押井守監督が「鬱映画の巨匠」として完璧な映画を作る日が来たら、、、恐ろしい。こういう映画を作るなら、アングラに潜ってもらいたい。数十万人にみせるものではないと思うのだ。そして、そのほうが監督の評価も保てると思う。いまのまま鬱映画を作り続けては、いずれ「客が呼べない監督」に成り下がってしまうのではないかと心配だ。

と書いた。しかし、本人は気にしないらしい。というか「自分の作品の客は1万人程度でいいと思っている」そうだ。やはり監督本人は間違っていない。間違っているのは周りの連中だ。

押井は自らを「娯楽作品をつくる商業監督である」と語っているが、一方で「自分の作品の客は1万人程度でいいと思っている」、「1本の映画を100万人が1回観るのも、1万人が100回観るのも同じ」といった発言があることから大衆・万人に受け入れられる作品づくりにはあまり興味がない模様である。また、「自分より年上の人間に向かって作品を作ったことがない」という発言もある。

via: 押井守 - Wikipedia

※追記

ビジネスとしてのアニメ制作と、彼の表現が不釣り合いなのであれば、ひょっとしたら引退するしかないもかもしれないとか勝手に思ったりもする。

via: F’s Garage:スカイ・クロラ見た

同感。私としては引退までしなくても、アングラ系インディ作家として長くカルト的人気を保つことはできると思うし、小規模にやればきちんと黒字で回せると思う。

Grave of the Fireflies: 火垂るの墓

このエントリーを含むはてなブックマーク August 14th, 2008

火垂るの墓』(ほたるのはか)とは野坂昭如小説

via: 火垂るの墓 - Wikipedia

オールナイトフジ』(フジテレビ)にゲスト出演していた際レギュラー出演していたとんねるず石橋貴明を殴打したがなんと石橋から「かゆくもないっす。」と嘲笑されたという恥ずかしいエピソードを持っている。

via: 野坂昭如 - Wikipedia